akon0.98bのよっぱらいの戯言

好客三年不変店 好店三年不変客

ウエツフミによる古代史概略(サマリー)

まとめ
http://ugaya.jimdo.com/%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7/


詳しくは、ウエツフミの原典を。
ウガヤフキアエズ王朝のあらすじ
それは、日向族と呼ばれる人たちが、大和王朝に先立ち、九州を中心に作った王朝です。
時期は、ちょうど弥生時代と重なり、推定起源前2000年位〜紀元後300年くらいの間です。

「もっと国土を広げよ!」という、アマテラスらからの命令により、
祖母山に降臨したニニギの命は、最初の都「ニ上の大宮」から、大分の地に遷都します。
そして、最初に開拓したのが現在の南大分、稙田タウンのあたりです。
霊山(りょうぜん、当時は御宝山)に神を祭る神殿を建て、
現在の植田(わさだ)、荏隈(えのくま)、廻栖野(めぐすの)、今(いま)あたりを中心に、新しい都「大分の宮」を作りました。
もちろん、高千穂を捨てた訳ではなく、ここにあった「二上の大宮(ふたのぼりのおおみや)」とは、頻繁に行き来していました。
つまり豊後と日向、大隈半島まで含めて、ひとつの国家だったようです。
このほかに、「臼杵の宮」「大野の宮」「直入の宮」などが大分各地に点在し、特に「臼杵の宮」には歴代の天皇の産屋が置かれ、
ほとんどの天皇がここ生まれています。
ニニギの息子・山幸彦とトヨタマヒメの間に生まれたのが初代ウガヤフキアエズであり、竜宮城=海洋民族との関係を連想させます。
これらの宮を中心にして、全国各地を巡幸していました。
特に、スサノオの作った「出雲国」(末代がオオクニヌシとされている)と、「越の国(今の新潟、富山、石川、福井あたり)」とは仲が良かったようで、たびたび訪れて、盛大に接待された様子が書かれています。
また、越の国にロシア(おろし)が攻めてきたときには、援軍を送っています。
朝鮮半島加羅支那国からは、たびたび使者が訪れており、ここはウガヤ王朝の属国でした。
第71代の治世に、九州に天変地異が相次ぎ、これが理由で奈良の吉野山に遷都します。
そして、第74代彦(綏靖天皇のことと思われる)が、即位したところで、突然記述が終了しています。
ウエツフミには「以上が41綴の終り」というような結びの言葉があるが、これさえ無いほど突然中断している。)
つまり、この段階で王朝は滅亡したと考えられるのです。


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【オオケツ王朝】
スサノオに先立ちオオケツ兄妹神が降臨して農業文化などを伝える
稲作を中心とする農業技術はこの時代に開始された(縄文時代後期か?)
サンカの桜蓑の製法なども含まれることからサンカはこの文明の後裔か?
場所に関する記述は無いが、オオケツ国とは愛媛県のことを指す


【出雲王朝】
スサノオが霧島に降臨し、北上して出雲に至る
大国主が食肉を許した罰により出雲国は滅び、統治権を天上界に返上
後任を探すが難航(多くの神々が降臨するがいずれも行方不明となる)
大国主はニニギの降臨のために準備調整を行ない政権交代を実現させる
>>>
霧島に天孫降臨したスサノオは、宗像三女神らとともに北上しながら九州・四国・中国・山陰を開拓してゆきます。
このころ、日本列島には先住民として縄文人たちが住み着いていました。
マガツ神に例えられたこの縄文人たちは、スサノオにより次々と平定されてゆきます。
そして、スサノオが最後にたどり着いた地が出雲であり、ここで、少なくとも6代にわたり繁栄します。
オオクニヌシの時代になって、天変地異が相次ぎ、加えて、外国人による侵略もあったため、オオクニヌシは地上の統治権天照大神に返還します。

そこで天上界では、次の後継者を探し、何人かを次々と降臨させますが、うまくゆきません。
最後に選ばれたのが、天照大神の孫であるニニギの命です。
ニニギが降臨するにあたっては、オオクニヌシが先輩としてすべての準備調整を行なっています。
そのお礼とて「出雲大社」が創建されました。
だから、出雲王朝と日向王朝は、まさに兄弟王朝であり、文化や信仰を共有しているのです。<<<

ウガヤフキアエズ王朝
ニニギの命が「文明」をもたらしたことから「弥生時代」が始まる。
そして、全国を統治する体制が整ったので、これを「ウガヤフキアエズ王朝」と呼ぶ。

ニニギ
ニニギは、祖母山または久住山天孫降臨し、まず「二上の大宮」(大分県竹田市周辺)にお宮を構え、そこから「大分の宮」に遷都します。
他に「直入の宮」「大野の宮」「臼杵の宮」などを置く
ここ「豊の国」を起点に、農業を中心とする「弥生文明」を、全国に広めていったのです。
そして、孫の初代・ウガヤフキアエズの時代には全国を統治する体制が整ったので、これを「ウガヤフキアエズ王朝」と呼びます。


海彦・ 山彦
ニニギの息子は、海幸彦と山幸彦でしたが、弟が皇位を引き継ぎ、ワタツミノ国(竜宮城)から豊玉姫が嫁いできて、ウガヤフキアエズの命が誕生します。
古事記』『日本書紀』では、日向三代はここで終了し、神武天皇があとを継いだことになっているのですが、ここに意図的な捏造があります。
なぜなら、このあと少なくとも74代(約2000年)にわたり、ウガヤフキアエズ王朝は繁栄し続けるのです。
そして、第73代・ウガヤフキアエズの命が神武天皇であり、第74代が綏靖天皇です。

山彦が竜宮城を訪れ、豊玉姫と出会って結婚、潮満玉・潮干玉を持ち帰る
地震の発生により、一族は高千穂町の岩戸に篭る
海彦・山彦がお互いに皇位を譲り合い、海彦は岩戸に篭る

  天孫ニニギ(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命)の子、ヒコホホデミ(天津 日高日子穂穂手見命)は、
兄から釣道具を預かって海に出たが、一つの成果もなく、かえ って釣針を失ってしまった。釣針の返済を迫る兄に困ったヒコホホデミは、シオツチの神 の勧めにより、海神ワダツミの宮に参って釣針を取り戻すべく、無間勝間の小船(目が固 く詰まった籠状の船)で大海原へと乗り出した。
 ヒコホホデミはワダツミの宮で海神の娘・トヨタマヒメ(豊玉毘売)と結ばれ、そこで 三年の年月を過ごすことになった。帰国したヒコホホデミは、海神の助力を得ての戦いで 兄を撃ち破ることができた。その後、ヒコホホデミは出産のため、海岸に上がってきたト ヨタマヒメを迎えたが、その際、トヨタマヒメは「出産の時、異国の女は本来の姿を現し ます。だから産屋を覗いてはなりません」とヒコホホデミに告げた。
 好奇心にかられたヒコホホデミは、つい産屋を覗き、そこに巨大なワニがはいまわって いるのを見た。本来の姿を見られたことを恥じて、トヨタマヒメは海に帰ってしまう。か くてこの世に生を享けた子、それがウガヤフキアエズ(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合 命)であった。彼は叔母のタマヨリヒメ(玉依毘売)に育てられ、後にその叔母との間に 四子を成す。
以上が『古事記』の語るウガヤフキアエズ誕生のいきさつであり、『日本書紀』もほぼ 同様の話を伝えている。
この物語は海幸山幸として親しまれているので、御存知の方も多 いだろう。<<<

初代・ウガヤフキアエズ 武鵜草葦不合身光(赤字は竹内文書より)
http://www.geocities.jp/mb1527/ugayachou.html
全国に建(タケル)と呼ばれる地方長官を任命
祖母山の尾平付近に埋葬される

初代ウガヤフキアエズの結婚にあたって、そのしたくを 整えたのは、国譲りの後、出雲に隠棲していたオオクニヌシであった。彼はウガヤフキア エズに妃を迎えるよう勧め、さらに自らワダツミの宮に赴いて縁談を進めた。
 タマヨリヒメはオオクニヌシの導きでまず出雲の日御崎に上陸し、さらにサルタヒコに よって豊日国大分郡の御宝山で迎えられ、高千穂の二上宮に入った。その後、初代ウガヤ フキアエズは高天原の神々を祀るため、様々な年中行事を定め、さらにその国土にオクニ ・サトクニ・ムレクニ・オムレといった行政区分を設けた。また、豊日国を発して東方の 国々を巡行し、その足跡は津軽にまで達していたともされる。初代ウガヤフキエエズは崩 御の時、六百余才、在位は三百年にも及んでいたという。<<<

第2代・ウガヤフキアエズ 軽嶋彦
病弱で早期に隠居し第3代に譲位する
隠居後に、薬学・解剖学などを研究して人民に告知する
猿を使って人体実験を行なうなど、かなり高度な医学ノウハウを伝える
豊国文字(旧字体)が発明され、その後、より簡略化した新字体が登場する。

ニニギの御代に作られた文字の改良を思い立ち、コトシ ロヌシの一族に命じて、新しい文字を作らせた。その文字は『上記』に用いられているも のと同一であり、これをカタカナの祖形とみなす研究者もある。<<<


第3代・マシラタママカカヒコ 真輝彦
月ごとの年中行事と節句を定める

カラシナ(中国)の王ケエニより、隣国の王カムヌリと戦うための兵 糧援助の申し出があり、五穀の種子と農業技術者を送り届けた。すなわち、『上記』が語 る太古日本は中国の農業を指導するほどの先進国ということになっているのだ。
 三代天皇は二代上皇と相談し、諸国を巡行することになった。その際、天皇は近江以東 の東日本を、上皇丹波以西の西日本を回ったという。ウガヤフキアエズ朝の都は一貫し て九州にあったはずなのに、ここではいきなり畿内を中心とした国土観が現れてくる。こ うした不整合は『上記』の錯綜した成立過程を暗示しているようで興味深い。<<<

第4代 玉噛彦
加羅支那人の来襲が続発し、九州西南部に上陸して悪事を働いたため
霧島山頂に「厄払いのための神社」を建てる・・・・「霧島神社の由来」

行政のための官僚機構を整え、さらに宮殿や神社の建立を通して建築技術を 進展させたとされる。また、この天皇の御代に北方の国オルシ(オロシャすなわちロシア のことか)による越の国への侵攻があったが、国守が招集した地元住民の勇猛と皇軍の到 着で撃退することができた。これは外敵襲来の最初の記録である。<<<

第5代赤珠彦
6石鉾歯並執楯
7櫛豊姫
8光徹笑勢
9千種姫
10千足姫
11禍斬剣
12弥広殿作
13豊明国押
14奇猿姫
15臼杵
16産門真幸
17表照明姫
18依細里姫
19少名形男彦
20大汝彦
第21代天饒明立

第22代・アメニギシクニニギシヒコツキ 天押明神魂彦
第23代・アメニギシサマツワケクニタラシ真都国足
第24代・アメニギシクロハマコ 黒浜彦
第25代・トミアキタラシナカオキ富秋足置
第26代・タネカシヒコ 種析
第27代・タケタマ 建玉
第28代・アメノイソリエラキノオ海童楽之雄
第29代・カムトヨミ姫 神豊実
第30代・マロセノオ円春之男
第31代・タチバナ姫 橘姫
陸奥で瀬織津彦の子孫である雄勝彦が反乱を起こしたので、天皇自ら2000人の軍を率いて滅ぼす
第32代・ハナヨリ姫 花撰媛 文机彦を弥嚮男(摂政)とする
第33代・スガノミヤ姫 清之宮媛
大分県竹田市を中心に善政を行う
馬術が得意だったため「うまし姫」と称され、直入のウマシに大宮を構える(現在の用作公園の辺りか?)

第34代八千尾亀之尾
35花媛
36稚照彦
37松照彦
38太祝詞
39神足伊足彦
40神楯媛
41神楯広幡八十定彦
42鶴舞
43豊足大御中
44大炊気吹
45空津争鳥
46鳥言足清
47大庭足媛
48豊津神足別
49豊足彦
50神足別国押之姫
第51代T国押別神足日
第52代・アマツホノエタマヒコ 代紅之枝玉
◆熊本の菊池氏の祖先と思われるククチワカタケの記述がある。
その妻は、タヂカラの子孫で力持ちだった。なお、入田、荻、判田などの地名がみえる。
◆美人のヤツマ姫に恋をして后にする。その皇子・タキオカシサワビコは、三宅の後宮に祀られた霜凝日子の祖先である(現在の神原神社のご祀神か?)また、その皇子・アマテルウシロオは、大分の御宝山(霊山)に新宮を建てて、皇祖の墓を守った。

第53代・アメヒラキアカリシクニツカ 明知国束
◆全国に神社を置く。この神社のリストからウガヤ王朝の勢力範囲が全国に及んでいたことが分る。
◆二年かけて全国を行幸する。このとき、栃木県にてイワサクネサクがオオミヅチを退治する。
◆伊予の山中で道に迷い、助けられた高知り星の神から、アマテル、ヨミテル、クニテル、オオナムヂ、スクナムヂの詔を受け取る。(だから全国に神社を置いた)

第54代・タカマノハラカカキトヲルクニシリ 輝徹国知
◆荷前(税金である穀物)が増えすぎたので、天皇は減税しようと悩む。臣下に大議論が起こり、現状維持を唱えた三柱の大臣は、片目を抜かれ宮崎のカタマ島に流される。ところが今度は、人民が荷前廃止に抗議して涙ながらに訴えたので、「減税」することで決着した。

◆男女ともに成人したら、外国人を追い払うための軍人、薬草を掘る人、牛馬を飼う人等となって貢献せよ。また貴族は農学を学んで農業指導を行なうこと。匠人、役人、商人、漁民、狩人、軍人などはその貴族を賄え、という通達を出す。

第55代玉柏彦
56成瀬男
57照雄之男
58御中主幸玉
59明玉主照
60櫛豊姫
61豊足日明媛
62豊足別彦
63事代国守高彦
64豊日豊足彦
65勝勝雄之男
66豊柏木幸手男彦 67代を天照大神とすると伊弉諾尊となる
67春建日媛(天照大神としている)
第68代宗像彦

第69代・カムタラシワケトヨスキ 神足別豊鋤
次男を阿蘇の新宮の長官にする。
屋久島に加羅支那人が漂着したので、 愛媛・長野・青森・兵庫などに分散して入植させた。

第70代・カムコロヅテモノベタケ 神心伝物部建
お后の矢野姫が難産で、夢枕にニギハヤヒが降臨。
「我を祀ればこの子に幸いを授ける」というお告げにより
奈良県斑鳩山に祀られる。


第71代・ウガヤフキアエズ 百日臼杵
大飢饉による食料生産指導のため、皇族は全国を巡幸
この途中、長男のイツセがナガスネヒコに殺害されたため、
兄弟の高倉下・大久米や、息子たちと一緒に近畿に遠征する
(のちに「神武東征」と呼ばれる事件のうち前半)

このとき、新羅軍がナガスネヒコの応援をしたため苦戦し、
息子のイナイイとミケヌイリヌも失う
終戦後、いったん豊の国に凱旋帰国するが、
まだ天変地異が収まらなかったため、占いにより「東遷」を決意(後半)

第72代・イツセ 五瀬命
記紀の「彦五瀬」につながる
ナガスネヒコに殺害されるが、死後に即位(名誉即位)
和歌山の窯山神社(亡くなった場所)に祀られる

第73代・ヒダカサヌ
記紀の「神武天皇」につながる
ただし、その記述内容は記紀よりもはるかに詳しい
ヒダカサヌは実在した可能性大だが、神武天皇と同一人物かどうか疑問

第74代・カムヌナガワミミ
記紀の「綏靖天皇」につながる
弟にヒコヤイミミ・カムヤイミミ、別腹にタギシミミ
この戦いに勝利した日向族は、「豊の国」から奈良県の橿原に遷都してきます。
その理由は、九州ではまだ天変地異が続いており、住める環境ではなかったようです。

ウエツフミの記述はここで突然終了。

倭国大乱
東日流外三郡 を信じるならば、
ウガヤフキアエズ王朝を滅ぼしたのは、東北に逃げ延びて、津保化族(津軽)や阿蘇辺族(宮城・福島)と
合流した、ナガスネヒコの一族(アラハバキ族)でした。
このあたりは、別途、調査する。

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以下の書籍は、古事記日本書紀に対して、偽書といわれています。
竹内文書(タケノウチモンジョ)
先代旧事本紀大成経(サキツミヨノフルコトノモトツフミオオイナルオシエ)
秀真伝(ホツマツタエ)
上記(ウエツフミ
九鬼文書(クカミモンジョ)
桓武焚書(神皇正統記)
http://www115.sakura.ne.jp/~byunbyun/wonder1/wonder01.html#hajime
上記徴証 吉良義風

参考文献
http://uetuhumi.web.fc2.com/reference/reference.htm

『解読上紀(うえつふみ)』田中 勝也
 http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/menu.phpウガヤ王朝とウエツフミ
http://ugaya.jimdo.com/%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%83%A4%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%A8%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%83%84%E3%83%95%E3%83%9F%E3%81%A8%E3%81%AF/

・謎の上記(うえつふみ)―古代の百科全書の全貌 (佐治芳彦著 徳間書店)・謎の神代文字―消された超古代の日本 (佐治芳彦著 徳間書店)  上の2書は、内容的に興味本位の読み物ですが、私が「うえつふみ」を知るきっかけになった本なので、ここに載せます。
・「ウエツフミ要録」(全2巻)(吾郷清彦著 霞ヶ関書房)  吾郷清彦著 霞ヶ関書房:吾郷氏によるウエツフミの概要(あらすじ)本。全体像を把握するには良いかもしれない。  ウエツフミ要録〈上巻〉 (1974年)  ウエツフミ要録〈下巻〉 (1974年)

ウエツフミとは・・・・? >
それは、豊国文字という不思議な神代文字で書かれた「神話」であり、わが国の成立過程を記述した膨大な「歴史書」でもあり、さらに古代文明の記憶が満載された「百科事典」でもあります。


Wikipediaの記述
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E6%96%87%E5%AD%97

http://ugaya.jimdo.com/

http://ugaya.jimdo.com/2015/06/01/%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%83%A4%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%81%A7-%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91/
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一方、
ヲシテ文献とは、 「ミカサフミ」「フトマニ」「ホツマツタヱ」を指し、
ホツマツタエは、古代大和ことばで綴られた一万行に及ぶ叙事詩です。
以下の書籍が出ています。
はじめてのホツマツタヱ
記紀原書ヲシテ 上巻―『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『フトマニ』のすべて
縄文人のこころを旅する―ホツマツタヱが書き直す日本古代史
甦る古代 日本の誕生 ホツマツタヱ大和言葉で歌う建国叙事詩
ホツマ縄文日本のたから