飛鳥時代(斉明天皇のころ)、阿倍比羅夫による侵略が試みられていた。
信用できない「日本書紀」によれば、「658年に阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷(北海道)を討ち、さらに粛慎(樺太)を平らげた」となっている。明治時代の開拓で、多くの死者をだしているので、この時代に簡単に樺太まで、行けたとは思えない。そもそも、平定したと報告していても、ただ、泊まっただけかもしれない。
粛慎は、中国では、満州東部に住むツングース系民族を指すが、阿倍比羅夫が討った粛慎は、蝦夷以外のオホーツク文化人、もしくは樺太中部以北に住むニヴフ(粛慎の末裔)とする説もある。
鈴谷式土器の時代(紀元前1世紀から紀元6世紀)から樺太に住んでいた人々の中からオホーツク文化が生まれた。3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた。オホーツク文化に属する人々は、北海道に南下し、7世紀から8世紀にかけては道北・道東に広く進出していた。9世紀になって擦文文化に属する人々が道北に進出すると、道東地域のオホーツク文化圏は中心地である樺太から切り離されてしまった。その後この地域のオホーツク文化は擦文文化の影響を強く受けるようになり、独自の文化様式トビニタイ文化に移行していった。このトビニタイ文化はその後、擦文文化に同化し、13世紀初め頃には姿を消した。
一方、渡島半島を中心とする地域では擦文文化(アイヌ文化の前身)と本州土師器文化の混合的文化である青苗文化(クレオール的文化)が成立。この青苗文化を足がかりに、和人が移住し本州と蝦夷との交易に携わる集団を形成、渡党と呼ばれるようになった。鎌倉時代、室町時代には、渡党は蝦夷沙汰職・蝦夷代官(室町以降は蝦夷管領)安藤氏の支配下に置かれ、その活動範囲は渡島半島周辺地域にも及び、居住地は道南(道南十二館)であったとされる。注目しなければならないのは、このころですら、道南をうろうろしているだけなので、平安時代に樺太を平定するなどできるとは思えない。
コシャマインの戦い(1457年)、ショヤコウジ兄弟の戦い(1515年)を経て、
蠣崎氏が支配権を確立していき、文禄元年、蠣崎慶広が豊臣秀吉から蝦夷島主として承認され安東氏(安東政季は安藤氏の後裔とされる)から名実ともに独立、以降松前氏を名乗るようになる。渡党は松前藩士となり同化していった。
江戸時代に入ると松前藩が成立し、渡島半島南部を占領していた。18世紀の末頃から江戸幕府が蝦夷地を天領とすると、次第に拡大し、東は1800年には野田追(現八雲町)、1864年には同長万部など、後の胆振国山越郡にあたる地域に広がり、西では1807年の後志国寿都郡等や1865年に後の後志国小樽郡に相当する小樽内に達した。後に北海道11国86郡のうち、渡島国、後志国、胆振国山越郡に国郡を置いた。
戊辰戦争時には、箱館奉行を引き継ぐ箱館裁判所が置かれ、松前藩は館城に移り館藩となる。館藩は、箱館湾海戦などの行われた箱館戦争で旧幕府軍(蝦夷共和国)と戦っている。蝦夷共和国については、ガルトネル開墾条約事件もあり研究の余地あり。箱館戦争終結後、箱館県(旧箱館府)は廃され新たに開拓使が箱館に置かれた。
以降、明治政府により、囚人を使った過酷な開拓という名の侵略が行われ、明治5年(1872年)10月 福島郡など四郡(旧館県)が青森県から開拓使に移管。これにより北海道全域が開拓史の所管となる。つまり、北海道を覇権に収めたのは、明治時代になってからである。