akon2.00βのよっぱらいの戯言

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漢民族は滅亡していた

漢民族が、周辺の異民族を感化し中国文明を作り上げてきたのではなく、異民族に征服され、統治されることでその異文化の恩恵を受けて漢民族は進歩できた。多民族国家を統治していくためには、このようなレトリックが必要なんでしょう。

夏王朝(BC 21世紀〜BC 16世紀)を建国した大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになった。夏人を南蛮と呼ぶ。南蛮に対して、山東から江蘇,安徽2省にけてを東夷という。
そこに北方から殷人(山西高原から南北アジアに連なる森林地帯の狩猟民族、北狄)が侵入し、夏王朝を征服した。殷王朝は甘粛省西戎出身の周にとってかわられ、周はさらに奏(甘粛省西戎出身の遊牧民族)にとってかわられた。

また、周王朝(BC 1066〜BC 256)を建国した周武王が、商王朝(殷王朝ともいわれる。BC16世紀〜BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った後、中原に定住し、その一族が中国の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜をちなんで「華族」と称した。

紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一し、ばらばらとなっていた華夏族が統一された。その後の漢の時代(BC 206〜AD 220)は前漢及び後漢合わせて408年間にも及ぶ。この時期から華夏族は周辺民族から「漢人」と呼ばれ始めた。これは漢族の由来である。つまり、遊牧民族が自分たち以外を漢民族と呼んでいた。したがって、中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。
夷、戎、南蛮、狄が中原で接触し、中国人となっていった。

4世紀頃から北方の鮮卑などの北方遊牧民族華北平原を支配され、オリジナルな(中原の)漢民族は滅亡した。一方で、漢族に典型的な遺伝的血統があるわけではなく、異民族の出身であっても漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされるという考え方もある。


■夏
最初の王朝国家(紀元前21世紀 - 紀元前16世紀)で、大禹が建国した。

■殷・商(紀元前16世紀 - 紀元前1066年)
河北付近に興ったとする見方が有力で、黄河文明で生まれた村(モンゴル系遊牧民)のうち強大になり発展した都市国家で、末代の帝辛(紂王)が建国した。

■周(紀元前1066年 - 256年)
武王が殷(商)王朝の末代の帝辛(紂王)を討ち取った後、中原に定住し、「華族」と称した。また夏王朝を建国した大禹の末裔が「夏族」と称していたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている。西周は犬戎によって滅亡した。

■斉(紀元前11世紀 - 前379年)
チベット遊牧民チャン(羌)族は、紀元前1046年に周と協力し、殷王朝(モンゴル系遊牧部族)を滅ぼし、斉を建国。

■楚(紀元前11世紀 - 前223年)
周の建国によって黄河流域から追いやられた殷(モンゴル系遊牧民)の一部の民族が、長江流域に住み着き、土着の南方系民族を支配。

■春秋戦国
春秋時代都市国家の盟主どうしの戦国時代だった。周を滅亡させたチベット系遊牧部族が晋を建国し、春秋末期最強の都市国家となった。しか、晋の有力な家臣六家が相争い、最初力が抜きん出ていた智氏が弱小な趙氏を攻めたものの攻めきれず、疲弊した智氏を魏氏、韓氏が攻め滅ぼしたことで最終的に晋は趙、魏、韓の三氏に分割され、滅亡した。

■秦
秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭郷にあたる。つまり、秦人は始皇帝も含めて、甘粛省の草原の西戎(チベット系)遊牧民である。紀元前206年に秦王朝が滅亡。秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻った。

■漢(紀元前)
楚や淮河流域・山東半島は、周によって追いやられた殷の部族(モンゴル系遊牧民)が住み着き、いくつかの国を作っていた。これらの諸国が連合して、秦を侵略した。つまり、秦から漢への転換は、チベット遊牧民(秦)からモンゴル系遊牧民(漢)に覇権が移ったということである。
漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。唐の高祖・太宗とも鮮卑であり漢民族ではない。彼らはその姓を「李」といいその始祖を李玄盛といい、楚の支配層(中原から追いやられたモンゴル系遊牧部族)が漢王朝を築いた。

漢朝の最盛期には人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱(184年)などの後漢末から異民族国家の乱立期(五胡十六国から南北朝にかけて)に、戦火による大虐殺でその人口が約700万人まで激減しており、漢民族は極少数民族となり、中原時代からの漢民族は滅亡した。この際に人手不足を補うため北アジアの草原から強制的に華北に移住させられた遊牧民たちが後に五胡十六国の乱(304年)を起こし、華北に多くの独立国を建てた。つまり、華北遊牧民の地となり、生き残った漢人たちは長江の南の未開の地に逃げ込んで、南朝と呼ばれる亡命政権を建てた。この南朝鮮卑に征服された。

三国時代(魏、呉、蜀)
遊牧民の地華北を支配し、220年曹丕禅譲を受けて皇帝となり魏を建国(曹操の時代にすでに権力を把握していた)。翌年蜀の劉備も漢の皇帝を称し、さらに229年には呉の孫権も皇帝を称した。蜀は劉備によって建国され、劉備前漢の景帝の第9子中山靖王劉勝の庶子劉貞の末裔と称しているので、モンゴル系遊牧民であろう。孫権の先祖は春秋時代の兵法家・孫武に遡るとされ、チベット系遊牧部族であろう。
三国は魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、蜀がまず263年に魏に滅ぼされ、その魏も有力な臣下であった司馬炎に265年に皇帝の位を譲るという形で滅亡した。

■晋
司馬炎元帝禅譲を迫って皇帝の位を奪って皇帝となって国号を晋と命名し、さらに280年に呉を滅ぼし、中国を統一した(西晋)。
西晋を建国した司馬炎は父司馬昭が魏の有力者であったことから鮮卑と考えられる。


東晋五胡十六国
316年五胡の1つである匈奴西晋を滅ぼした(永嘉の乱)。これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々(十六国)が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を東晋という)が支配した。

南北朝時代
華北(五胡十六国)は北魏によって統一され、江南を中心とする中国の南方(東晋)では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。江南地方は宋・斉・梁・陳という4つの王朝が支配した。420年江南では劉裕東晋より禅譲を受けて宋を建国した。479年蕭道成は明帝の後を継いだ劉碰を殺して順帝を擁立し、この皇帝から禅譲を受けて斉を建国した。502年蕭衍は和帝より禅譲を受けて梁を建国する。557年陳霸先は禅譲を受けて陳を建てる。589年陳は隋に滅ぼされた。


北魏
紀元前の漢時代に、東胡と呼ばれていた遊牧民のうち、中国東北部にある大興安嶺の拓跋部が南下して北京の北部に住み着いた。そこに鮮卑山があったので、拓跋鮮卑と呼ばれた。中国北部からモンゴル高原にかけて勢力を有していた。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。北魏では第5代献文帝まで国姓であったが、後に元氏(元姓)と改姓された。543年北魏東魏西魏に分裂した。東魏は550年に滅び北斉となり、さらに578年西魏北周に滅ぼされた。北周は隋になった。

■隋
577年北周北斉を滅ぼし、581年北周の将軍楊堅がクーデターを起こし、北周を滅ぼし、589年南朝の陳を滅ぼし、隋を建国した。楊堅は漢族出身ではなく北方異民族の普六茹氏である。隋の東には高句麗、西には突厥があった。

■唐
618年隋の将軍李淵がクーデターを起こし、唐を建国した。李淵は大野(だいや)氏という胡姓を持つ鮮卑系の出自である。中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した。

■■■五代十国
755年から763年にかけて起きた安史の乱により、唐は衰弱していき、黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した。

・五代
朱全忠は唐の皇帝昭宗を弑して、その九男哀帝を帝位に即け、禅譲させて皇帝となり、「後梁」(907年-923年)を建国。
後梁を滅ぼし、李存勗が「後唐」(923年-936年)を建国。李存勗は突厥系沙陀族の出身。
後唐の明宗が933年に病死し、三男李従厚がその後を継ぐが、明宗の養子李従珂によって簒奪された。李従珂は石敬瑭を排除しようとするが、石敬瑭は北の契丹に対して援助を求めた。これに応えた契丹の太宗耶律徳光は後唐を攻め、滅亡させた。そして、石敬瑭(高祖)は「後晋」(936年-946年)を建国。石敬瑭は石氏はタシケントを出自とするいわゆるソグド姓で、ソグド系突厥と呼ばれる唐朝後半期から東突厥のもとで突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属する。高祖は942年に病死する。後を甥の石重貴が継いだが、この即位は契丹の怒りを買い、946年、契丹(翌年に国号を遼とした)の太宗は後晋の首都・開封を攻略。石重貴を捕虜とし、後晋を滅ぼした。
遼の太宗の病死後、石敬瑭の元側近の劉知遠が晋陽で947年に皇帝に即位して「後漢」(947年-950年)を建国。
劉知遠はテュルク系突厥沙陀部出身。
劉知遠は翌年に死去し、次男の劉承祐がその後を継ぐ。幼帝を担いだ側近達は有力者の排除を図り、次々と軍人達を誅殺していった。反乱の鎮圧に出ていてこれを免れた枢密使の郭威は自らも粛清を逃れることは不可能と感じて兵を挙げ、開封を攻め落とし、自らの誅殺を企んだ側近達を一掃した。その後、一時は劉承祐のいとこに当たる劉贇(りゅういん、贇は文武の下に貝)を擁立しようとしたが、考えを改めて劉贇を殺し、951年に自ら即位し「後周」(951年-960年)を建国。郭威も養子の柴栄も隆堯県の出身であることから突厥沙陀部の血筋を引いている。

・十国
「呉」は楊行密によって建国され、揚州一帯を制圧。
楊行密の死後は配下の徐温の力が大きくなり、徐温の養子徐知誥によって簒奪され、徐知誥は簒奪後に名前を変えて李昪と名乗り、のちの「南唐」を建国。
同時期に南の浙江では、銭鏐が「呉越」を建国し、浙江一帯を制圧した。
呉越の南の福建では、王審知が福建を制圧して「閩」を建国した。南唐によって945年に滅ぼされる。
西の湖北は荊南(南平)、湖南は楚、広東は南漢が割拠していた。
荊南」は高季興によって建国された。
「楚」は馬殷によって建国されたが、951年に南唐によって滅ぼされた。
南漢」はアラブ系の劉隠によって建国された。
四川を割拠したのが前蜀後蜀の両蜀政権である。「前蜀」は王建によって建国され、四川を制圧したが、925年後唐によって滅ぼされる。
その後、四川の統治を任された孟知祥が自立して934年に「後蜀」を建国した。
北漢」は劉贇の父劉崇によって建国された。劉崇は、テュルク系突厥沙陀族の出身。太原を首都とし、現在の山西省北部を支配した。後周の後を継いで北宋が成立すると、979年に北宋に滅ぼされた。

■宋(北宋)
趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国。趙匡胤の父趙弘殷は突厥沙陀部の国家である後唐の近衛軍の将官であり、趙氏一族はテュルク系(トルコ系)突厥沙陀部である。

■元
モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した。

■明
紅巾党の中から頭角をあらわした朱元璋は、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。


■清
17世紀初頭に、現在の中国東北地方でヌルハチ満族を統一した。その子のホンタイジは中国東北地方と蒙古を征服し、1636年には蒙古人から元朝の玉璽を譲られ、清朝を建国した。李自成が明を滅ぼすと清朝の軍隊は万里の長城を越えて、李自成の軍隊を打ち破り、中国全土を支配下に置いた。

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