橘三千代

橘三千代〈上〉
壬申の乱が起こったとき、大海人皇子の舎人であった県犬養大伴の弟県犬養東人を父とし、県犬養三千代女の母方は土師氏で、野見宿禰を祖として、和泉国の百舌鳥、大和国の菅原と秋篠、河内国の古市から餌香の四流にわかれていた。田辺史通と名乗った。 田辺氏は百済からの渡来氏族で、大和川が石川に合流する手前の、飛鳥部郡の北部に居住し、河内は古くら朝鮮半島や中国からの渡来氏族が定住した地である。
古市郡の西文氏、隣 の丹比郡には船氏、葛井氏、津氏。なかでも西文氏は秦氏や東 漢氏とならんでもっとも早い時期に 渡来した氏族。飛鳥の高市郡に居住した東漢氏とともに重要 な地位を占めた雄族である。その後、二百年ほどして渡来した船・葛井・津の三氏は、海運と通商で 栄えてきた。田辺史氏は船氏の枝族だが、いまでは西文氏との関係を深め、文筆や文芸に秀でた人材 を輩出している。田辺史大隅藤原鎌足の息子、のちの不比等を養育している際に壬申の乱が発生し、藤原鎌足の息子は成人していなかったため、乱には加わらなかったのが幸いした。

敏達天皇の孫(曾孫か)、難波皇子の子(孫か)の栗隈王の息子美努王に三千代は嫁いだ。
692年 内侍司後宮)の最高位職である尚侍の次席である典侍に任じられる。

女帝に求められるのは巫女王であり、推古天皇斉明天皇も巫女であった。豊御食炊屋姫尊という和風諡号が送られているように神に捧げる御食をつかさどる王家の巫女であった。額田王の歌は神託であり、巫女であったと考えられる。
高市皇子の死後、藤原不比等は、直広弐、従四位下に登用された。不比等の妻は、賀茂氏で、大国主の後裔を称し、大三輪氏と並んぶ神祇氏族

野心を持つならばそれにふさわしい人間になれ。
それができないならば野心を持つ資格はない。

われ何を成なさむや。ただ琴酒に親しむべし。