まとめると、家康は、光成を挑発して関ケ原を仕掛けた。景勝は筋を通していただけ。景勝が天下を狙っていたら、 家康は負けていた。
1598年3月、秀吉からの指示で、会津に加増移封。この際に、越後の堀直政は榊原康正に、出羽仙北郡角館の戸沢政盛も家康に、景勝の非を訴える。→徳川方の言い分
1599年3月、津川城代藤田信吉が「上杉景勝謀反」と訴え出る。→徳川方の言い分
1599年9月、三成による蒲生氏郷毒殺のうわさが流れる。→実際は直腸癌。
1600年、神指城築城。
1600年4月、家康、伊奈図書昭綱と河村長門守を会津に派遣し、景勝謀反を究明。西笑承兌から直江兼続に宛てた家康からの詰問状
1600年5月、詰問状に対して直江状
1600年6月、家康会津討伐
1600年7月、三成挙兵し、家康反転、撤退する家康軍を景勝は追撃せず。
1600年7月、関ヶ原の合戦
1600年9月、上杉軍最上義光攻め
1600年10月、上杉軍長谷堂城から撤退