「独立自尊の意気盛んな自由で平等の国」
著者は元駐ミャンマー特命全権大使なので、割り引いて読まなければならない。
世襲制の貴族階級は存在しい
→王の従臣は一代限り
ミャンマー人の名前は、苗字がない
南部にモン族が住み、北部では7世紀にピュー人がピュー(驃)を建国した。
1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立
パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受け、1287年のパガンの戦いで敗北し、1314年に滅びた。
下ビルマには、モン族がペグー王朝 (1287年 - 1539年)を建国し、
上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族がピンヤ朝(1312年-1364年)とアヴァ王朝(1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。
アヴァ王朝が衰退に向かうと、ペグー王朝(ラカインとバゴー)が繁栄した。
シャン族の王朝が割拠したが、ティンカバーがビルマ人の王朝(タウングー王朝)を1347年に再興した。
17世紀にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝を興した。1752年3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、アラウンパヤーが王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。1754年にビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である
1885年11月 第三次英緬戦争で王朝は滅亡。
1886年6月 ビルマはイギリス領インドに併合
1943年ビルマ国が建国
1945年3月27日再びイギリス領
1989年6月18日 軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名
1990年5月27日 総選挙が実施され、NLDが圧勝した政権は移譲されなかった。
政権を移譲しなかった国家平和発展評議会(SPDC)の言い分として、
→SPDCは国家法秩序回復評議会(SLORC)が1997年11月に改組されたもの
この選挙は定員485人の議員を選出するだけのものであった。
軍を批判すれば票が集まる選挙であった。
軍を批判すれば逮捕されるが、唯一の例外がアウン・サン将軍の娘アウン・サン・スー・チーであった。
アウン・サン・スー・チーの知名度を利用した寄り合い所帯であった。
民族分割統治により民族闘争があり、解決後に移譲しなければ内乱が起きる
憲法がなかったため、選定する必要があった。
一方で、ミャンマー連邦共和国憲法の規定で、アウン・サン・スー・チーは大統領就任できなかった。