akon2.00βのよっぱらいの戯言

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最後の遊牧帝国

 

 

中央アジアCSI諸国、カザフスタンウズベキスタンチンギス・ハーンの子孫を核とした民族。

タタルスタン共和国は、チンギス・ハーンの長男ジョチ一族の「黄金のオルド」の後裔。

 

ユーラシア(Eurasian)は、ヨーロッパ(Europe)とアジア(Asia)の合成語。

モンゴル帝国は消滅していない。

1368年、モンゴル本土と中国を支配していた元朝の皇族は、明朝の朱元璋におわれて、モンゴル高原に逃れた。

 

遊牧帝国とは、部族連合からなる遊牧民族と、かれらが征服した定住農耕地帯の諸民族で構成された多民族国家

民族は、遊牧部族の連合。領土の概念を持たない国家。

部族は、特定の首長に率いられて、他の遊牧集団とはっきり区別できる集団。

氏族は同じ祖先をもつ人々の集団だが、すべてが血縁関係とは限らない。部族の下位集団。

 

17世紀、モンゴル帝国の東端に満州族清朝、西恥にロマノフ王朝ロシアが誕生した。

清朝1636年の建国の際に、元朝皇帝の後裔から支配の正当性を引き継いだ。

ロシアは1572年リューリク朝のイヴァン雷帝のときに、「黄金のオルド」の後裔のハーンから位を継承した。

 

清朝の建国とモンゴル諸部

ゴピ沙漠の南のモンゴル諸部は、その領主たちの多くがチンギス・ハーンの直系のダヤン・ハーン を祖先とする、ハルハ部の同族。

清朝は、大興安嶺山脈の東側から興ったマンジュ(満洲)人の建てた王朝。

マンジュ人は1635年まではジュシェン(女直、女真)人と言つていた。

清朝の太祖皇帝とよばれるヌルハチが、諸部族を統合して1616年に建てた王朝は、はじめアイ ガ・アイシン・グルン(後金国)と言った。

ヌルハチは、1648年、チンギス・ハーンの弟ショ チ・ハサルの子孫であるモンゴルのホルチン部族の領主と婚姻をむすび、同盟関係に入った。

ヌルハチは1626年に死に、八男のホンタイジが父の後を継いで、モンゴル諸部を順次征服しはじめた

 

その頃モンゴルでは、ダヤン・ハーンの直系のチャハル部族長リンダン・ハーンが、同族であるモンゴル諸部の領主たちを制圧し、モンゴルの再統一をはかっていた。

しかし、リンダン・ハーンは、チベット遠征のために青海に向かう途中、1634年にシラタラ(甘粛の武威の草原)で病死。 その遺児エジェイは母スタイ太后とともにジュシェン軍に降伏。

この時にエジェイとスタイ太后が、シュシェン人のハーン・ホンタインに捧げたのが、昔の元朝の皇帝の玉璽「制誥之宝」。

https://sengna.com/2017/05/14/hese-wasimbure-boobai/

 

ホンタイジは、チンギス・ハーンの受けた天命が自分に移ったと解釈し、ジュシェンという種 族名を禁止してマンジュ(満洲)とよぶことにした。

翌1638年、ホンタイジは、藩陽に召集された大集会(クリルタイ)で、満洲人、ゴビ砂漠の南のモンゴル人、遼河デルタの中国人の代表 から、三種族の共通の皇帝に選挙されて、新しい国号を大清と定めた。これが清朝の建国である。

 

チンギス・ハーンの直系の子孫であるエジェイは、ホンタインの次女と結婚して、清朝皇帝の婿となり、親王爵位を授けられた。清の太宗皇帝ホンタイジの五人の皇后は皆モンゴル人で、三人はホルチン部族出身、残りの二人はチャハル部族のリンダン・ハーンの未亡人であった。

1643年、太宗皇帝ホンタイジが死 に、ホルチン・モンゴル人の皇后から生た順治帝が父の後を継いだ。翌1644年明朝が亡びたので、清朝瀋陽から北京に入って中国を支配することになった。

 

転生活仏制度

僧侶に妻帯を禁じているチベット仏教社会では、教団を維持するため、

高僧がなくなると、予言や占いを利用して、死後49日以内に受胎して生まれた子供から転生を探し出す。

そして、高僧の弟子たちがその子供を教育して、教団と財産一切を継承させる。

 

満州語は、ツングース系の言語で、モンゴル語トルコ語と近い。

この三つの系統の言語をアルタイ系言語と総称することがある。

これらの語順は日本語や韓国語に近い。

 

ジューンガル部はオイラトの一部族であるが、オイラトはモンゴル民族とは呼ばれない。

 

618年、隋が滅び、遊牧民族鮮卑族出身の李淵が唐を建国。

唐は、北アジアを支配していた突厥帝国の君主カガン(のちハーンの起源となる称号)に対して、臣下の礼をとっていたが、李淵(高祖)の子李世民(太祖)は、軍を送り突厥を滅ぼし、突厥支配下にあった北アジア遊牧民たちは、唐の皇帝を自分たちの天可汗(カガン)に選挙した。

 

契丹の別種の室韋

 

7世紀にアルグン河渓谷の小さな部族であったモンゴルは、11世紀には、契丹が建てた遼帝国の外縁にあって成長し、12世紀には、契丹にとってかわった女真金帝国の同盟遊牧部族の一つとなって、多くの有力氏族に分かれた。

モンゴル部族の中のキヤン氏族から出たチンギス・ハーン13世紀初めに、モンゴル高原の全遊牧民族を統合してその最高君主に選挙されて、草原のあらゆる遊牧部族はモンゴル民族となった。

とはいえ、チンギス・ハーンといえども、直轄の領民以外、つまり、他の領主の領民に直接の支配を及ぼすことはできなかった。チンギス・ハーンができたのは、万百長、千百長、百長を任命すること。

 

ラシード「集史」

第一部(Bāb-i Awwal)(テュルク・モンゴル諸部族史)

第1章(Faṣl-i Awwal) - オグズの子孫から生じた部族と、オグズの親族から生じた部族も加えた二十四部族(オグズ系諸部族)

ウイグル、キプチャク、カルルク、カンクリ

第2章(Faṣl-i Duwum) - 現在はモンゴルと呼ばれているが、以前はそれぞれ別の名を持ち、独立した首長を持っていたテュルク部族(テュルク諸部族)

ジャライル、スニト、タタル、メルキト、コルラウト、タルグト、オイラト、バルグト、テレングト、森のウリヤンハン

第3章(Faṣl-i Suwum) - 以前は独立した首長を持っていたが、第二のテュルク部族とも第四のモンゴル部族ともつながりはなく、しかし外観や言語は彼らと近いテュルク部族

ケレイト、ナイマン、オングト、タングト、キルギズ、カルルク、キプチャク

第4章(Faṣl-i Chahārum) - 久しい前から通称はモンゴルであったテュルク部族、これから出た多くの部族(モンゴル諸部族)

第1節(qism-i awwal) - ドルルキン諸分族(コンギラト、コルラス、イキレス、イルジキン、ウリヤンキトなど)

第2節(qism-i duwum) - ニルン諸分族(アラン・コアの子孫 チンギス・カンと系譜関係にあるモンゴル系の諸氏族)

 

フビライモンゴル帝国唯一の大ハーンになった際、フビライ政権は、モンゴル高原と中国の両方を支配した。

しかし、経済基盤は中国にあり、1271年大元、元朝を建国した。

 

1634年、元朝は中国を失い、モンゴル高原に退却した時代を北元時代と呼ぶ。

 

明朝は、韃靼と呼んだ。蒙古(モンゴル)とよぶと、北アジアの民こそが元朝の後裔となり、元朝の正統を継いだことを自認する明朝には具合が悪い。

つまり、タタールオイラートの抗争ではなく、モンゴルとオイラトの抗争である。

 

オイラトの首領たちは、チンギス・ハーンの男系子孫ではなかったので、ハートを称することができなかったので、タイシ(太師)という称号を使った。

 

モンゴルとオイラトを指して、ドチン(40)とドルベン(4)という。

これは頭韻を踏んだ言葉で、モンゴルが40部族連合、オイラト4部族連合であることを示している。

 

ジューンガル部のライバルだったトルグート部は、ロシアの支配が強まるヴォルガ湖畔を脱出し、中央アジアを横断し、清朝支配下に入っていた故地イリに帰還した。

彼らの子孫が新疆ウイグル自治区北部で暮らす、トルグート・モンゴルと呼ばれる。

 

古来、遊牧民族は君主の息子たちの相続争いで、瓦解する。