akon2.00βのよっぱらいの戯言

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謎とき日本合戦史

 

 

明治42年に陸軍「歩兵操典」が古来の戦闘法である白兵主義に改正された。
白兵とは明治以降に作られた言葉。
刀剣で弓矢に太刀打ちができず、戦場では弓矢が主で刀剣は従。

江戸時代中期の旗本(幕臣)・伊勢流有職故実研究家、伊勢 貞丈
古くは弓を持たずに馬に乗る者はいなかった。

山鹿流兵法及び古学派の祖、山鹿 素行
遠い昔は武芸訓練の中心は騎射つまり馬上で弓を射ることであった


十四代武田流弓馬軍礼故実司家を相伝 武田流弓馬士、金子有鄰
馬上では槍や薙刀のような長物は容易に使えるものではない。
槍などの長物を持った徒歩武者と渡り合うのは難しい。
このため、馬に乗る武士は、長物を持たせた徒歩の兵士を左右に従えた。

中世の馬は乗員と甲冑を載せて走らせると分速150メートルがやっとで、10分くらいでへばる。

元寇
元は集団戦、日本側は個人本位で組織立っていなかったが、一騎討ではなかった。
文永の役の元軍はなんらかの理由で撤退し、帰国中に大風にあって、損害を受けたのであって、風が彼らを撃退したのではない。
このころから、このころから槍が主力の武器となり、徒歩戦が増え、下馬して戦うようになった。

太平記
軍忠状によると、戦傷の多くは飛び道具

川中島の時代
徴兵制とことなり、兵の補給が難しいため、戦いを避ける傾向にあり、兵の消耗を避けるために飛び道具が用いられる。

長柄足軽が甲冑を付けず、素肌であったのは、敵兵を突くよりも、相手の陣形を崩したり、槍ぶすまをつくって、敵の突入を防ぐためであった。

川中島合戦
両軍約三万三千のうち約八千が戦死したとしたら、もはや軍として機能せず、隣国から侵攻されてしまう。
したがって、濃霧で視野の効かなかった両軍が、たまたま衝突して勃発した不期遭遇戦である。

長篠の合戦
織田軍の鉄砲は三千挺でなく千挺。
鉄砲「三段撃ち」は、信ぴょう性が低い。
武田軍に騎馬だけで編成された騎馬隊などなかった。
日本の在来馬は馬体が小さく騎馬突撃は無理、下馬して戦闘した。
「戦いの舞台」は、広大な平原ではなかった。
→南北におよそ2km、東西に平均して200~300mほどの縦長な平地が広がり、その中央を河川(連吾川)が分断する、およそ馬が駆け巡る大平原とは程遠い。
織田・徳川連合軍と武田軍は、上記の南北に続く平地に沿って背後に細長く連なる「舌状台地上に布陣」していました。特に連合軍側は、武田軍本隊が長篠城から向かってくる数日前からこの台地を巧みに陣地化し、空堀(からぼり)や土塁、切岸(きりぎし)を築くと、全体に柵(さく)をめぐらせ、高低差を利用して武田軍を迎えました。そのため、この戦いは武田軍からみれば「平原での野戦」というよりむしろ「城攻め」に近く、馬での戦闘には不向き。
設楽原では武田軍は城の建物が穴だらけになるほど鉄砲を打ち込んでいる。

江戸時代後期
頼山陽の日本刀崇拝によって、白兵主義の萌芽のようなものが現れてきたが、
攘夷戦争で外国に負けて消滅。

藤田東湖は兜も断ち割れると言っていたが、そんなことはない。

むしろ、幕末は火兵主義であった。

ところが日露戦争では、当初から白兵戦を予期しての銃剣突撃が行われるようになった。

諸外国からも評価されたが、実態はお金がなくて兵器弾薬を買えなかった。
一方、諸外国は第一次大戦で、白兵主義は打ち砕かれたが、日本は体験しなかった。
日露戦争での成果によって、「歩兵操典」が改正され、白兵主義は日本陸軍の根本思想になった。

満州事変以降、刀剣重視の姿勢が顕著になる。
戊辰戦争西南戦争日清戦争日露戦争を通じて日中戦争ほど大量の日本刀が使用されたことはない。
→飛行機の発達で大集団での会戦が難しくなり、戦闘が分散して行われがちになった。ゲリラ戦への対応が必要になった。
ただし、乱戦で敵と渡り合った事例は少ない。
日本刀は脆弱であった。