鎌倉時代、源頼朝による奥州合戦に従軍し、石那坂の戦いで戦功を挙げた常陸入道念西が、頼朝より伊達郡の地を与えられ、伊達朝宗(ともむね)を名乗ったのが伊達氏の始まり。
念西は山蔭流の待賢門院非蔵人藤原光隆の息子である朝宗(母は源為義の娘)に比定され、朝宗の曽祖父である常陸介実宗の代に伊佐、若しくは中村と称した。
政宗は九世と十七世の二人がいる。
鎌倉時代の奥州は葛西、留守という奥州惣奉行、建武中興期には、伊達、結城が頭角を現してきた。
足利一門で奥州探題の大崎、畠山の配下にあった伊達を鎌倉の公方体制が盛り立てた結果である。
11代持宗の代に将軍義持より諱の一字を賜り以降、政宗の父輝宗まで賜っている。
稙宗
父尚宗は従五位相当の大膳大夫であった。
左京大夫は奥州探題職を世襲してきた大崎氏の官位なので、伊達氏は大崎氏に匹敵する存在であることが公式に認められた。
奥州は元来、守護を置いていません。鎌倉期には奥州惣奉行が奥州を監督し、さらに室町期になると、斯波氏の支流である大崎氏が奥州探題職を世襲し、奥州をまとめてきた。
陸奥守護職は大崎氏に変わって奥州を統括するという役目もあった
幕府は大崎氏に気をつかって奥州探題職は大崎氏としていた。
政宗の不運
・袋のネズミであった二本松攻略に八か月かかった
・最上の南下にくぎ付け
・大崎攻めに失敗する
・北に大崎・最上、東に相馬、南に佐竹・芦名と四面楚歌
・佐竹・芦名が豊臣麾下になる
上郡山仲為は政宗が送り込んでいた外交官
鶺鴒の花押
→真偽より、前もって非常に備える周到なる用意が評価された
鎬藤四郎
太閤秀吉から拝領した形見の品。
ところが実は中身は木刀だった。
この「鎬藤四郎」を2代将軍秀忠公に献上するように徳川家の家臣、内藤外記正重に進められたことがあったが、「故太閤殿下の形見である」と断りつつ、
仙台城二の丸築城の許可を得るため差し出している。
家康の死後、決起しょうとしたができなかったので、家康との約束だからとした心意気
関が原で伊達は上杉と死闘するであろうと見越して百万五のお墨付けをだし、思惑通り、伊達が軍機違反したので反故にした。
第二都市仙台
・東京第一師団、仙台第二師団、名古屋第三師団
・東京第一高等学校、仙台第二、京都第三
北海道開拓