akon2.00βのよっぱらいの戯言

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猿と女とサイボーグ

 

猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―新装版
 

 

集積回路の女性は共通言語というアイロニックな夢を見るか

フェミニズム社会主義唯物論への「冒涜」を行うとする。

→冒涜とは崇高な対象を貶める。しかし、同一化してしまうことよりも誠実である。つまり、それまでのフェミニズム社会主義唯物論にそのまま乗っかるのではなく、それを批判し、攪乱するという作業を示していると考えられる。

 

サイボーグ(サイバネティックな有機体)とは、機械と生体の複合体であり、社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く生き物である。

→サイボーグというと、機械と人間の融合した最強な生命体のようなイメージが流布しているが、そうではない。機械、人間、動物、物質…が結びついて、どこまでが主体でどこまでが客体であるかも分からないような状態。

 

サイボーグは人間にも見えるが胸には集積回路が、頭には動物が接合されていて、どこまでが本体・中心または部分かすら分からないもの。

 

なぜサイボーグのイメージが必要なのか

フェミニズムにおけるジェンダー論をはじめとした様々な議論は西欧的な一体性の思考(ホーリズム)によって成り立っており、それでは限界がある。

ヒラリー・クラインが分析したところによると、マルクス主義精神分析、労働の諸概念、個、ジェンダー形成の諸概念は起源の一体性というプロットに依拠している。

全てが、ある「こと」から生み出されたと考えるような思考が西欧を占めている。

例えば、マルクス主義では経済・物質性が、精神分析では抑圧された性が、ジェンダー論では社会的な性の決定によって現在の状況の全てを考える。

 

しかし、サイボーグはこのような起源の一元性を無視する。

サイボーグは一つのパラダイム的なものではなく、部分的なものである。

→サイボーグは、断固として、部分性、アイロニー、緊密さ、邪悪さに関与する。サイボーグは抵抗的で、ユートピア指向で、無垢さなどまったく持ちあわせていない。

一方が他方を搾取、組み込みをするのではない。何かを敵として名指して倒すことはしない。

 

このようなサイボーグが住む世界はどのようにできたのか

 サイボーグのための分析の前提

ポリティクス‐フィクション(ポリティクス‐サイエンス)の分析のために必要な前提は3つの境界の崩壊によって起こった。

人間と動物の境界の崩壊
人間は動物=自然とは唯一異なる存在であると考える西欧的な思考がある。これは主に創造説に由来すると考えられる。
この支配的な思考は生物学と進化論によって覆された。

→批判への対処:生物学決定論は人間が動物であることの意味を科学文化において論じる際にとりうる一つの立場に過ぎない

動物-人間(生体)と機械との間の境界の崩壊
生体である動物や人間と機械との間には主体/客体、能動/受動、書くこと/書かれること、の区別があったが、それはもはや言えない。
→我々の機械は不穏なほどに元気がよいし、その一方で我々自身はといえば、驚くほど活気がない。

→批判への対処:技術決定論も活動をコードされたテキストとして考える一つのイデオロギー空間にすぎない。

(2.の部分集合だが)物理的なものと物理的ならざるものとの境界の崩壊
今の社会ではどこに機械・物理学が物質的・政治的に存在しているか不明瞭である。物理的なものはどこに存在し、我々を支配しているのか分からない。
=ポリティクスとしてのサイエンス(フーコーの権力・知の政治をより拡張)
 

以上のような3つの境界の崩壊にもかかわらず、アメリカの社会主義者フェミニストの大半が一層深い二元論を想定しているが、このような考え方では現実を捉え、変革するためには不十分。

多くの人はテクノロジーが支配するような世界に対して反対する。しかし、そのようなテクノロジーとともにある世界の在り方も、見方を変えれば、現実は変わりうる。

見る角度をわずかに歪めてずらすことで、意味や、さらにはもっと別の形態の権力や快楽を、もっとよい形で問題にしていけるかもしれない可能性がある。

 

現実をサイボーグの視点で見る。

単一の視点から生みだされた幻影は、複眼視の場合や多頭のモンスターの見た世界には遠く及ばない。

このようにして、現実に住む我々はサイボーグになる。

断片化するアイデンティティ
ここでは、フェミニズムアイデンティティを基盤としてつながりを持つことができなくなった現在を記述する。そして、アイデンティティidentityではなく、アフィニティaffinityによってつながりを持つ。

 

今日、ある者にとってのフェミニズムに対して、単一の形容詞をもって名称を付与することは困難となっているし、状況にかかわりなく、フェミニズムという名詞にこだわりつづけることさえすでに難しい。

→リベラル・フェミニズムマルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズムアナーキストフェミニズム

 

「女性(female)」であることに、女性womenを自然に結束させるべき何ものかがあるわけではない(p.297)

そもそも「女性」というカテゴリー自体を批判しているフェミニズムもあるのだし、このカテゴリーが初めから想定しているような女性female「である」状態が存在するわけではない。

フェミニズムという時に誰が「我々」に入るのかという難問。

 

 「である」という状態がない場合、どのようにつながればよいのか

アイデンティティidentityではなくアフィニティaffinity(親密性や類似点からのつながり)を根拠としてつながりをもつことを唱える。

「である」というアイデンティティではなく、そのように置かれた状況などの類似性からのつながりを考える。

 

シェラ・サンドゥーヴァルの抵抗意識モデル

どのように本質的に「有色の女性」というわけではなく、何らかのカテゴリーから排除された(白人、黒人、女性(白人)、…これらには実質的に「有色の女性」は入っていない)というネガティブなアイデンティティという政治的近親感による抵抗意識が考えられた。

 

このようなフェミニズムは一体性を突き崩す。それは家父長制、植民地主義などの使い古されたものばかりでなく、時には自らの足元を掬うように有機的、あるいは自然な立場を求める際の要求の根拠も、すべて掘り崩される。

「家父長制が悪いのだ」「それは植民地主義だ」というような一体性をもった批判対象は無くなり、「女性であること」すらも武器として用いることはできない。

しかし、これは新たな結合の可能性をもたらす。(括弧付きの)「有色の女性」には、移民の子どもも入るかもしれないし、貧困層の人も入るかもしれない。 

 

フェミニズム

これまでのフェミニズムの経緯、前提 マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズムは、それまでの女性の意識を自然なもののとみなすと同時に変容させてきたが、それではどうしてもつながることができない人が出てきてしまう。

マルクス主義/社会主義フェミニズム:女性による再生産を「労働」として考えることによって女性を選択可能なものとして一体性を主張(出産も労働であり、私たちも働いているのだ、ということによって女性の権利・正当性を主張)

 

②ラディカル・フェミニズム

→自己の労働ではなく、他人の欲望が「女性」の起源であるとされ、かくしてマキノンは、「女性」の経験であるとみなされうるような存在を強要する意識(中略)をめぐる理論を発展させることになった。

そもそも、女性という存在があるのではなく、他人の欲望の対象となることによって構築されたものが女性であるという考え方。

 

①②もともに西欧的な書き方=全体性のようにして書いているため、部分的なものとして受け入れることはできなかった。全てを含みこむ(包摂する)ようにして自らの支配形態を拡張してきた。そのため、他のアクター(例えば人種)を含みこむ余地がなかった。

カテゴリーとしての女性や、社会グループとしての女性が、一体化された存在として、あるいは全体かが可能なあるまとまりとして構成されていることを明らかにすると主張するような理論には、人種(やその他こもごも)が入り込めるような構造的余地などなかったといえる。

 

我々(フェミニスト)は失敗。

しかし、これについて「自覚したうえで、あえて茫漠たる差異に踏みこみ、部分的かつ真の関係を築くという混乱を極める作業に没頭する。

全体性を想定するような概念ではなく、サイボーグのように様々なもの・概念を取り込み、部分的につながることができるような概念を提唱する。

ここで重要なのは差異を知るということ。

一つの全体的な論理ではなく、様々な差異を見つけて、その差異によってつながることができるようなサイボーグを目指す。

支配の情報工学
ここでは、従来の思考を攪乱するような、社会と科学、テクノロジーとの緊密な結びつきによる社会関係の配置替えについて考える。

旧来の階層的支配から、支配の情報工学=新しいネットワークとハラウェイが呼ぶものへの変容。

科学やテクノロジーを含みこむことによって「女性」を取り巻く状況は大きく変化した。

もはや何ものも「自然である」ということはできない。では、どのようにつながればいいのか。

ここにおいては媒介変数の頻度として定式化される=翻訳されることによって協同が生まれる。これがサイボーグの記号論

つまり、何がどういう点でどうなのか?というときのどういう点というところに注目する。

 

それ自体が何かの起きることに対して重要であるわけではなく、何かのコード(媒介変数)が起きることのいくつかを整列させるのに重要である。そして、それによってそれぞれの要素は代替可能になる。

 

例えば、サイバネティクスにみられるように、ある目的(制御、通信、情報処理)を満たすために生物も機械も神経も同等に部品のように構築すること。

ここには部品の区別は必要なく、ただ機能主義的に配置される。仮に、ある部分の機械が使えなくなかったら人間の神経を投入するように。

 

これのように、コミュニケーション・テクノロジーやバイオテクノロジーのようなツールは新たな社会関係を具体的にもたらし、また、強制する。

→さらにまた、コミュニケーション科学と現代生物学も、共通の動向―世界を暗号化の問題へと翻訳するという、あたかも共通言語を探るような動向―によって構成されている。

コミュニケーション科学は情報の定量化、操作可能性、翻訳可能性を増幅する。

現代生物学も、バイオテクノロジーに見られるように、生体が知の対象としてではなく、生体部品(バイオ・コンポネント)=情報処理装置として存在するようになった。

 

つまり、 コミュニケーション、テクノロジー、生物学においても機械、生体…の機能主義的な利用が行われ、従来の区別が攪乱されている。

 

→マイクロエレクトロニクスは、労働からロボット工学やワープロ作業、性から遺伝工学や生殖技術、精神からAI(人工知能)や意思決定過程への翻訳を媒介する。

そこでは、「機械と生体の差異は完全にぼやけているし、心とからだと道具が緊密きわまりない関係をとり結んでいる。」

 

「家庭」の外の「ホームワーク経済」
ここでは、シリコンバレーで働くようになった女性たちから社会関係の再編成を考える。彼女らがやっていることがどのように新しくて、どのように古いのか?どこに今までとの違いがあるのか?それによってどのような変化があるのか

 

女性の仕事とされてきたことは、技術の進展に伴って再編成される。

女性が外に働きに出ること、そこで家政婦ではなく、最新技術を扱う。ここには「ホームワーク経済」の再編成がある。

 

「新技術の社会関係に必然的に伴う今一つの側面は、労働力として科学やテクノロジーに携わる多くの人々にとって、期待、文化、労働、生殖/再生産が再編されることである。」(

 

この中で、我々はどのようにして対処していくことができるか

 

集積回路の女性
ここでは高度産業社会での女性が置かれてきた見取り図を参考にサイボーグを考える機会を捉える。

 

イデオロギーよりもネットワークのイメージを用いる。ここには「誰から誰」というような直接的な関係性だけではなく、モノや機械、生体を含めさまざまなものが組み込まれているからだ。

そして

「こうした権力や社会生活の網の目を読み取る術を修得しえた暁には、我々も、これまでとはちがった結合や新たな連帯の仕方を身につけることができるかもしれない。」(

→ただし、このネットワークには女性の「位置」が存在するのではなく、差異と矛盾という女性のサイボーグとしてのアイデンティティに不可欠な幾何学的性質が存在するだけ。

一体性をもった確固たる位置があるのではなく、分散した状況のなかに「女性」はいる。

「ひょっとすると、動物と機械と融合する過程を介して、我々は、いかにして人間(マン)たらざりうるか、―いかにして、西欧的のロゴスが具体化された存在としての人間(マン)ではなくかたちで存在しうるか、―について学ぶことができるかもしれない」

 

サイボーグ―政治的アイデンティティという神話
最後に、サイボーグを露わにするような物語りについて。

境界をめぐる神話物語り。例えば、文学、映画「ブレードランナー

書くこと、物語ることにはサイボーグ的な政治性がある。

書くことは、まさしくサイボーグの技術であり、二〇世紀後半のエッチングされた表面である。サイボーグのポリティクスは、ことばを求める戦いであり、完璧なコミュニケーションに対する闘いである。

 

 サイボーグの概念を用いることの有用性

サイボーグの想像力は、本論で枢要の二つの議論を表現するうえで役に立つ。

「普遍的で全体化作用を持つような理論を生成することは大きなまちがいと言わざるをえず、そうした理論は、リアリティの大半を、常に―そして現時点ではまず確実に―とり逃してしまうことになる。」

科学やテクノロジーの社会関係に対して責任を持つことは、反科学の形而上学―技術を悪魔的存在として扱うこと―をやめることを意味し、したがって、日常で遭遇するさまざまは境界を構築しなおすという作業を大切にし、そうした作業を、他者との部分的な関係性を保ちつつ、しかも我々を構成する各種の部分(パーツ)のすべてとコミュニケーションをとりながら行ってゆくことを意味する。