akon2.00βのよっぱらいの戯言

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西暦一〇〇〇年グローバリゼーションの誕生

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Territories_and_voyages_of_the_Vikings.png

 

 

西暦1000年といえば、日本は平安朝

明の時代に永楽帝の命を受けた鄭和コロンブスより70年も早くアメリカ大陸を発見していたのは有名な話である。

 

本書は1000年を対象にしているので、ノース人から始まっている。

ノース人はノルウェーヴァイキング

デンマークヴァイキングはデーン人。

本書に書かれていない1000年以前を振り返っておくと、

アフリカを出た現生人類はアラビア半島沿岸部を伝って現在のイラン付近に至り、そこを起点に、インドから東南アジア、オセアニア方面にむかう「南ルート」、中央アジアを経由してアルタイ山脈、東アジア、北アジア方面に向かう「北ルート」、中東、ヨーロッパに向かう「西ルート」の3方向に分かれた拡散した。

紀元前4世紀には北ゲルマン系のノルマン人、つまりノール人が土着した。

バルカン半島中央ヨーロッパを経由し、スカンディナヴィア半島南部にやってきた。

ゲルマン民族の大移動によって中央ヨーロッパに戻ったが、この際にノール人は移動していない。

 

モンゴル帝国ユーラシア大陸全土を支配したのは1206年から1271年

元が東アジアと北アジアを支配したは1271年から1368年まで

 

アメリカ人大陸に人類が到達したのは1万年以上前

グリーンランド北部とカナダ東部の極地方には、紀元前2000年ころからドーセット人が住んでした。

1000年の頃には、極地方の環境への適応度がより高かったトゥーレ人がドーセット人にとってかわった。

トゥーレ人はアラスカからカナダ北部を横断してやってきた。

イヌイットの祖先にあたる。

1500年以降は、ワバナキ同盟の ミクマク族、ペノブスコット族、マリシート族、パサマクォディ族などが住んでいた。このころの交易ネットワークは、北はラブラドール地方から南はメイン州、西は五大湖地方。

 

バイキングがヨーロッパ人としてはじめてカナダ東海岸ニューファンドランドに上陸したのが1000年ころ

赤毛のエイリークルのサガ(ヨーロッパ人として初めてグリーンランドに入植した物語)でてくる入植地ヴィンランドニューファンドランドと比定している。

 

当時のキープレイヤーは、中国人、インド人、アラブ人。

スラブ人を意味するSlavslaveの語源となるほど、奴隷には東欧出身者が多かった。

 

社会を迅速に発展させるための方法の一つは、より進んだ社会の宗教に改宗することだった。そして、世界宗教の数が減少していった。

 

パンアメリカ・ハイウエイ

南北アメリカ大陸の国々を結ぶ幹線道路網

 

メソアメリ

メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域。

 

メソアメリカ人は歯に切れ込みを入れたり、宝石類などを埋め込んだりする「歯牙変工​」という風習があった。米イリノイ州のカホキア遺跡で発見された遺体には歯牙変工のあとがあった。つまり、メソアメリカ人がカホキアまでやってきたか、カホキアの人間がマヤを訪れ歯牙変工して、カホキアに戻った。つまり、カホキアとマヤで交流があった。つまり、ミシシッピ川に沿って南下し、メキシコ湾を渡ってユカタン半島へと至るルートが存在した。

 

バイキングがマヤ文明都市国家チチェン・イツァで捕虜にされていた

 

チチェン・イツァは3600㎞も離れた場所にあるチャコ・キャニオン(ニューメキシコ州古代プエブロ人。プエブロ・​インディアンの祖先が住んでいた)とチョコレートやコンゴウインコの交易をおこなっていた。

 

トルテカ人はメキシコシティの北西80キロのトゥーラから、陸路あるいはメキシコ湾を船で渡ってチチェン・イツァに移住している。

 

イツァ族が1220年代にユカタン半島西部からチチェン・イツァに移り住み、13世紀末にマヤパン(ユカタン半島北部)に移住した。スペイン人に征服されてからも現在に至るまでマヤ人はユカタン半島の熱帯低地で暮らしいている。

 

1492年にコロンブスがやってきたとき、チチェン・イツァは交易の中心ではなく、交易の中心はアステカ帝国の首都テノチティトランであったのでスペイン人は侵略し破壊し、メキシコシティを建設した。つまり、コロンブスパンアメリカン・ハイウェイを創造したのではなく、既存のアメリカ大陸の交易に、大西洋横断航路をつけて、ヨーロッパの航路をつないだに過ぎない。

 

東に向かったノース人は、ロシアの語源となった。ルーシ人となった。

ルーシとはスウェーデン人を表すフィンランド語から派生した呼び名。

ルーシ人の初期の都市は現在のデンマークとドイツの国境にあるヘーゼビュー(ビルカ)

ビルカを出て東に進むとロシアのヴォルホフ河畔のスタラヤ・ラドガ

ここにはフィン人、バルト人、スラブ人、スカンジナビア人などが住んでいた。

 

当時のヨーロッパと中東の二大都市は、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノーブルとアッバース朝イスラム帝国の首都バグダットであった。

 

ルーシ人は河川を南下して国会に到達し、そこから現在のセヴァストポリ(ケルソン)への陸路を開拓した。ケルソンはコンスタンティノーブルへの途中にある都市で、バグダットにも向かえた。

 

コンスタンティノーブルは、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブルの前身。

 

ローマがコンスタンティノーブルに代わってキリスト教の中心地になるのは第四次十字軍後の1204

 

イングランドノルマン朝を開いたウィリアム征服王は10世紀初頭にフランスに現れたノース人の子孫であった。

 

1066年 ウィリアムのイングランド征服によってバイキング時代は終焉した。

 

グローバリゼーションは同じ宗教を持つ国々の同盟関係であり、それは交易上のパートナーでもあった。

 

奴隷にされた王の物語

https://journals.openedition.org/afriques/1746

 

沈黙交易は神話

沈黙交易は交易をする双方が接触をせずに交互に品物を置き、双方ともに相手の品物に満足したときに取引が成立するが、実際は仲買人がいた

 
キリスト教は東・北ヨーロッパに広まり、イスラム教は西アフリカおよび中央アジアへと広まった。