墓を訪ねることは、創発のプロセスを確認することだ
ボルツマン
ボルツマンの墓には、エントロピーの公式"S=k.logW"が刻まれている。
kにはピリオドがついている。
kはいろいろな係数に使われるから、差異化を図るためボルツマンのBを付して「kB」と記すときもある。
当時はピリオドを付けることでボルツマン定数を表現したのではないか。
科学は自然哲学に属し、哲学である限り、理論が正しいかどうか、つまりその正当性が問われた。しかし理論が正当かどうかを問うことをやめて、理論が現象を矛盾なく説明できればよい――ボルツマンはマッハとの不毛な議論の帰結としてそう考えた。すなわち科学は理論の正当性を問わず、有効性だけを問えばいい、と。
このとき、ボルツマンによってサイエンスが初めてフィロソフィーから精神的に独立したといえる。科学は、初めて哲学を中核とする人間の学問と袂(たもと)を分かった。これは、人間の精神を論じるときに問われる「正当」や「目的」という価値から、科学が「解放」されたことを意味する。おかげで科学はいかなる倫理的規制も受けずに急速な進展を遂げ、現代文明の主役の座に収まることになったのだ。
時を同じくして、サイエンスという言葉が普及する。サイエンスは自然哲学から化学や物理学が細分化し、それを一つの器の中に入れる言葉としてラテン語のscientiaから派生した。
イギリスの科学史家ウィリアム・ヒューウェル(William Whewell、1794~1866年)は1834年、サイエンスに携わる人々を「サイエンティスト」と呼ぶことを提案した。ここにいわゆる「職業科学者」が生まれることになる。
しかしそれに対する反発は多く、19世紀後半にイギリスの生物学者トマス・ハクスレイ(Thomas Huxley、1825~1895年)は「サイエンティストという言葉は英語として非常に汚い。自分のことはマン・オブ・サイエンス(Man of Science)と呼んでほしい」と表明して議論になった。
「サイエンスはそれによってお金を稼ぐような卑しいものではない」というハクスレイの感覚はよく分かる。サイエンティストと名乗った瞬間、自分が見つけた公式も原理も法則もすべて職業、つまり金銭の対価としてやっている気分になるというわけだ。
19世紀後半はサイエンティストと呼ばれることに対して、みんな抵抗を感じていた時代だったと思う。お金を得るため、生活のためではなく、マン・オブ・サイエンス、「科学する人」として、内なる好奇心に導かれながら科学をやっている。そんな時代だった。
大河内 正敏
理研に主任研究員に自由をもたせる研究室制度を導入
老中松平伊豆守信綱の末裔
太平洋戦争中に空襲にあった理研のエリアは原爆開発エリア。
実際は陸軍には原爆開発として予算をとりながら、実態は大サイクロトロンを開発していた。
「二酸化炭素主因説がいかに非科学か」
第2回クオリアAGORA/~地球温暖化-CO2主犯説を斬る~
https://www.goodkyoto.com/data/File_Storage/iio-agora4.pdf
[参考]
スターン・レビュー「気候変動の経済学」
http://www.env.go.jp/press/files/jp/9176.pdf
スターン・レビューの信頼性評価
http://m-yamaguchi.jp/others2/bp_10.pdf
パワー半導体(窒化ガリウムトランジスタ)で交流-直流の変圧を行えば
電柱のトランスをなくすことができる
電力ロスも少なくできる