ポル・ポト派の執政中の犠牲者数を、「結局直接の犠牲者数は150万人前後と見るのが妥当かもしれない。政権にあった間、毎日約1000人ずつを死に追いやっていた。
ポル・ポト政権では、カンボジアではなく現地語(クメール語)のカンプチアを使っていた。
底辺の人民が国家権力を手中にしたと宣言しているが、指導者、幹部は、当時のカンボジアの最高学府シソワット高校を卒業し、フランスに留学している。
サロト・サル=ポル・ポトは富農の出身で、姉は国王の夫人の一人となり、兄も宮廷に関わる一家で、ポル・ポト自身はカトリック系の学校で宗主国フランスの言葉であるフランス語教育を受けていた。
ナンバーツーのヌオン・チェアは豊かな家庭、イエン・サリ、ソン・センは地主、キュー・サムファンは裁判官の家に生まれている。
ティウン四兄弟はノロドム王家のライバルという家柄。
貧農に生まれた子は最高指導部には入れず、粛清された。
1960年
第一回党大会(正確には51年が第一回目の会議で会った)で、トゥー・サムートが書記、ヌオン・チェアが副書記、サロト・サルは書記補佐。フランス留学帰りが序列3、4、5を占めた。
1962年
トゥー・サムート失踪。
1963年
サロト・サルが書記に。
フランス留学帰りを中心とするポル・ポト共産党体制が出来上がる。
1966年
党名をカンボジア共産党とし、労働党でしかないベトナムに差をつけ中国に並んだ。
1970年
ロン・ノル首相がシアヌーク国家元首のフランス休暇旅行中に、アメリカに近いシソワット王家出身のシリク・マタク副首相と向けクーデターを起こす。
シアヌークの努力にもかかわらず、カンボジアはベトナム戦争に巻き込まれていく。
ベトナム共産党はカンボジア領を聖域として利用し、カンボジアで収穫されたコメの30-40%がベトナムに密売される。
このベトナム共産党軍をたたくため、米軍、南ベトナム政府軍がカンボジアに侵攻。
ベトナム共産軍は強く、カンボジア「解放勢力」軍を指揮し、ロンノル群を圧倒。
シアヌークは周恩来首相の支援でロンノル打倒戦線をよびかけ、放逐されていた共産主義者「三人の亡霊(キューサムファン、フーユオン、フーニム)」がこれに共鳴し、これに北ベトナム、ラオス愛国戦線が協力し、北京に臨時政府樹立。クメールルージュとシアヌークの共闘がはじまり、この内戦は5年続く。
自分は身を隠したまま、すべての相手を見つめる。いわば片面素通しのマジック・ミラーの裏にいるような状態は、ポル・ポトがもっとも好むものだった。
・宗教弾圧
・教育不要
・旧文化狩り
・国際支援拒否
。集団所有
・集団労働
・集団輸送
・集団食事
1978年
1979年
プノンペンは陥落し、ポル・ポト派は下野してジャングルに逃れ、親ソ親越のヘン・サムリン政権が成立
中国は、このベトナムの侵略を契機にベトナムを「懲罰」すべく1979年2月17日に軍事侵攻しているが、ベトナムに返り討ちにされている。
その後、ソ連と冷戦構造の崩壊の中で、ポル・ポト派を支えていたアメリカ合衆国もタイも中国も、ポル・ポト派には関心を寄せなくなり、ポル・ポト自身は1998年4月15日に死去。1998年12月はナンバー2のヌオン・チェアとキュー・サムファンが政府軍に投降。