中国は史上ずっと反日。
何かのきっかけでなったわけではない。
近世→近代→現代
清も江戸幕府も軍事政権。
清は狩猟的な武力組織で外から支配した。
江戸幕府は農業社会の内から自生した武力組織。
清はヌルハチがつくった。
鄭 成功
肥前国松浦郡平戸島で誕生。日本人として育つ。
清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。海賊の末裔。
清の時代のGDPは世界の1/3を占めていた。
輸出額も世界の1/3で銀が集まってきていた。
https://www.iss.u-tokyo.ac.jp/~marukawa/2017utokyo1.pdf
四つの口
長崎では中国やオランダと、対馬では朝鮮と、薩摩では琉球と、松前ではアイヌ人と交易や外交が行われていた。
鎖国ではなく、対外関係を江戸幕府が「唐船風説書」という報告書で情報を入手し、管理していた。
元も明も内乱によって自滅した。
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元寇の江南軍は移民
岩波書店「世界」2018年1月号 脳力のレッスン189 モンゴルという衝撃――十字軍と蒙古襲来 ―一七世紀オランダからの視界(その46)
江南軍の実体は、南宋攻略(1276年)後の疲弊した漢人の兵員を食わせるための農業開拓移民先としての日本への送り込みが狙いだったらしく、鋤や鍬を所持する武装農民のようなもので「兵団」といえるものではなかったといわれる。
応仁の乱以前と以降では、日本も中国も違う国
応仁の乱以前にあった家の多数は、応仁以後の長い争乱のため、ことごとく滅亡している。応仁の乱以後百年ばかりの間は、日本全体の身代の入れかわりである。
鎌倉幕府が倒れたのは寒冷化の影響もある。
気候変動と日本史 – NPO法人 国際環境経済研究所|International Environment and Economy Institute
万里の長城は、始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたもの。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。
銀が産出しているうちは中国からいろいろなものを銀で買い付けることができたが、銀がなくなってきたので、輸入代替化、つまり、自前調達した。これが開国時に輸出品となった。
日清修好条規において、李鴻章は朝鮮半島を中国の領土だとしていた。
中国革命
日本が清とロシアに勝ったのは、日本が西洋化して立憲君主制にしたからと中国は理解した。
日本は勝ったことで中国蔑視になって、対華二十一条要求によって五四運動が起き、反日が始まる。
中国から日本に留学生が来たのは、日本の漢字で書かれた西洋のことを学ぶため。
結果として、石橋湛山の小日本になっただけで国防とかは考慮されていなかった。
