国衆である岡崎松平家の当主で、妻の築山殿は今川家御一家衆の関口氏純の娘なので、今川家の親類衆とみなされ、駿府での居住も当然だった。
家康が幼少期(当時は岡崎城もしくは駿府に在城していた)に織田家に人質として送られたのが事実だったのかも、疑問。
家康が駿府に滞在していた時、岡崎領は今川家の保護下に置かれましたが、実際の統治や家臣団統制を担ったのは松平家の家老たちでした。今川義元が担ったのは、松平家の家臣に対する所領の給与や安堵、家督相続の安堵、戦功への感状の発給、領国の寺社に対する所領や特権の給与および安堵に限られていました。ただ、岡崎領は織田方との対峙において最前線に位置したので、今川家から譜代家臣や国衆などが岡崎領に派遣されました。ただ本書は、これが戦国大名の従属下にあり、敵対勢力との最前線に位置した国衆としては基本的な在り様。
1563年10月には三河の名族である吉良義昭や、他の松平一族が家康に敵対し、その鎮圧のために一向宗寺院に軍事負担を課したところ、激しい反発を受けて、「三河一向一揆」が始まった。
同時期に今川では遠州忩劇が発生し、その鎮圧の必要から三河に今川は進軍できなくなった。
三河岡崎領を領国とする国衆、岡崎様であったが、
牛久保牧野成定を服従させて、三河一国を領国とする大名になった。
清州同盟
家康が信長の本拠、清州城を訪問したことになっているが、国衆が他者の本拠地へ訪問するのは婿入り、舅入り以外はない。
木曾氏の第18代当主
子の義利が最後の当主
本能寺の変で織田信長が死亡したため、織田氏の領国支配体制が固まっていなかった旧武田領国(甲斐・信濃・上野西部)は混乱し、空白状態となった。この旧武田領国をめぐって、隣接する相模を本拠とする後北条氏(北条氏政・北条氏直)、織田氏の同盟者で武田征伐で駿河を得たばかりだった徳川家康、武田氏の滅亡直前まで武田勝頼と同盟を結んでいた越後の上杉景勝が争い、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽氏や真田氏らの国衆、旧信濃守護の小笠原氏などの動きが絡んで起きた争乱
秀吉の妹とされる朝日姫の前夫とされる佐治日向守を名乗った男の実在性には疑義がある。
