akon2.00βのよっぱらいの戯言

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最新考古学が解き明かすヤマト建国の真相

 

吉野ヶ里遺跡の最盛期は2世紀までで3世紀にはいると縮小をはじめるので、邪馬台国ではない。

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵

 

魏志倭人伝に記されている邪馬台国は7万余戸で1戸あたり平均面積を47平方メートルとすると329万平方メートルになる。吉野ヶ里遺跡は40万平方メートルしかない。

 

一支国原の辻遺跡

末廬国→千々賀庚申遺跡

伊都国→三雲南小路遺跡

奴国→那珂遺跡群

 

2世紀(弥生時代)の日本の五国

出雲連合+緩衝国家タニハ(丹波)

→氷上回廊→舞鶴と播磨を結ぶ道

氷上回廊を探検しよう | ちーたんの謎なぞ?探検 | 氷上回廊

東海連合→狗奴国→笹山古墳

→パレス・スタイル土器

畿内連合

瀬戸内海中部連合

北部九州連合

 

上代日本語では邪馬台国をヤマト国と読む。

邪馬台国は女王の都であり、卑弥呼政権に属する連合体全体を指す名ではなく、卑弥呼がいる地名。

卑弥呼邪馬台国の女王ではなく、実効支配する国を持たない倭国王

邪馬台国の長官(首長)は、官として「伊支馬(いきま)」、他に「弥馬升(みましよう)」、「弥馬獲支(みまかくき)」、そして「奴佳鞮(ぬかてい)」がいた。

 

奈良盆地邪馬台国の四官

生駒山あたりの富雄丸山古墳にイコマ→大和王→ナガスネヒコ

三輪山あたりの纒向遺跡にミマキ

葛城山あたりにミマス

中心部あたりの唐古鍵遺跡にナカト

 

北部九州には、、伊都国(平原遺跡)、奴国を超える国はなかった。

 

第一次倭国

鉄不足により、瀬戸内海中部連合と畿内連合の間に争乱

 

第二次倭国

後漢が衰退し、後ろ盾をなくした北部九州連合が瀬戸内海中部・畿内連合に加わる

卑弥呼の共立

 

米のススの放射性炭素年代法によって箸墓古墳築造年代は240-260年と卑弥呼が死亡したとされる248年と一致する。

 

卑弥呼後漢の後継王朝の魏に朝貢し、新魏倭王になり、出雲連合が加わる。

 

オオヤマト古墳群における二系列

→6基の被葬者は6代にわった王統ではなく、権威と能力が異なる神聖王と執政王の二系列

主系列:箸墓古墳(モモソヒメ=卑弥呼)→西殿塚古墳(台与)→行燈山古墳(祟神天皇)

副系列:桜井茶臼山古墳(キビツヒコ)→メスリ山古墳(オオヒコ)→渋谷向山古墳

→祟神天皇が派遣した四道将軍

 

纒向遺跡の神殿(宝庫)には、北部九州の神(アマテラス)と畿内・吉備の神(ヤマトノオオクニタマ)が祀られている。この連合体に出雲連合が加わり、この二神は宮中の外に出された。出雲の神、オオモノヌシが三輪山に祀られた。その後、北部九州連合が没落し、アマテラスが奈良盆地の外に出された。こり移転先を探したのが垂仁天皇とヒバスヒメの娘ヤマトヒメ(垂仁天皇の皇后で、四道将軍のタニハノミチヌシの娘)

 

日本における統一王権とは、神聖王と執政王がいる二重統治体制

つまり、権威と権力の分離。このことで天皇家が最古の王家として存続している。