立ち読みの歴史で、「積読が英語としてwikipediaにある」と知ったので読んでみた。
https://akon.hatenablog.com/entry/2025/06/28/073313
英語どころか、ドイツ語、フランス語、スペイン語にもない。
僕の中で、積読とは、読みかけ。
そもそも読みたいから買っているから、まずはぺらぺらとあとがきは読んでいる。
読み終えたら蔵書となり、積読からステータスが変わる。
電書は視野に入りにくいので、罪悪感がない。
勢い好書家は如何に速読家でも
或る程度に於いてのツンドク先生たらざるを得ないだろう。
だが、ツンドクの趣味を理解しないものは
愛書家で無いのは勿論真の読書家でも亦無いのを信じて、
私は常にツンドク先生に敬意を表しておる
内田魯庵「多忙なる読書と批評の困難」
表紙の写真をとってくれる本の収納サービス
本の育て方→マルジナリア(余白の書き込み)
ビオトープ(生物群の生息域)
→本という生物が私と共存して交流する空間
本は読めないものだから積読は恐れなくてもいい
本に「冊」という単位はない。あらゆる本はあらゆる本へと、あらゆるページはあらゆるページへと、瞬時のうちに連結されてはまた離れることをくりかえしている。一冊一冊の本が番号をふられて書棚におさまってゆくようすは、銀行の窓口に辛抱強く並ぶ顧客たちを思わせる。そうではなく、整列をくずし、本たちを街路に出し、そこでリズミカルに踊らせ、あるいは暴動を起こし、ついにはそのまま連れだって深い森や荒野の未踏の地帯へとむかわせなくてはならないのだ。ヒトではじまりレミングの群れとなり狼の群れとなって終わる。あるいは、終わらない。どこまでもゆく。そんなふうに連係的・運動的に、さまざまな本から逃げだしたいろんな顔つきのページたちを組織する。そして読み、読みつつ走り、走りつつ転身する。それが「テクスト」であり、時間の経過の中ではじめて編み上げられてゆく「テクスト」という概念は、もともと運動的なものだ。
一冊の本を読んでいるつもりでも、読んでいるときの頭の中には、いろいろな本のページやパラグラフが読み込まれている。本は進行中・生成中のヴァージョンだから、表紙から裏表紙まで読み終わることはない。何が書いてあったかをわすれてしまうのもあたりまえです。
パラグラフリーディング→通読よりも一段落に注力
長文を段落(パラグラフ)ごとに区切って、各段落の要点や主張を把握しながら読み進めることで、文章全体の構成や流れを理解する読解方法
本は完成形の商品ではない。
地面に生えている植物だ。
本箱はガーデニングをやっている土。
まだ発芽していないものもあれば、
これから育っていくものもある。
しかも、周りに雑草か生え、その雑草が大事
・ 読者による解釈の多様性:
同じ本を読んでも、人によって受け取り方や解釈が異なるように、本は読者によって異なる「植物」として成長します。
・ 時間の経過による変化:
時間が経つにつれて、本の内容が新たな意味を持つことがあります。例えば、時代背景が変わることで、以前は気づかなかった作者の意図やメッセージが発見されることがあります。
・常に進化する可能性:
本は一度出版されたら終わりではなく、読者の反応や批評によって、新たな解釈や評価が生まれる可能性があります。これは、地面から生えてくる植物が、常に変化し成長していく様子に似ています。
