akon2.00βのよっぱらいの戯言

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戦国武将を推理する

 

 

楽市を始めたのは、信長ではなく、六角定頼。今川氏真は1566年。

 

穴太衆の石垣技術は口伝で、大津市の粟田建設が継承している。

熊本地震で、穴太衆が積んだ熊本城の石垣は無事だった。

 

 

若い頃の秀吉は謎だらけ。

はじめて名が資料に出てくるのは、調略によって寝返らせた松倉城主の坪内利定の知行安堵状

 

今川の重臣飯尾氏の配下で遠江国頭蛇寺城城主松下之綱に仕え、遠江国久野に1万6000石という所領を授かったという文書は残っている。

そして、秀吉が松下之綱に1万6000石しか与えなかった。

之綱の子は関が原で東軍についた。

 

清洲城の堀の修理や、墨俣城は史実か不明。

自己顕示欲の強い秀吉が聚楽第で若い頃のエピソードを語って、後世に伝わっていないのは、人には言いにくい仕事をしていたのではないか。

 

軍師の竹中半兵衛は、信長から与力として秀吉の下につけられた。

 

秀吉の出世の原点である金ヶ崎の殿軍を指揮したのは序列的に秀吉ではなく、池田勝正

 

南殿

秀吉が近江長浜城主の頃の側室とされ、秀吉の第一子となる石松丸(羽柴秀勝)を産んだ。秀勝は数年後に夭折してしまい、その後さらに秀吉との間に女子をもうけたが、これも早世した。

秀勝が亡くなり、一方で女児が生れたとされる天正4年(1576年)は、正室・寧々(高台院北政所)から夫の不貞と不満とを訴えられた織田信長が、秀吉を「剥げ鼠」といって叱責する書状を返した同じ年であるため、側室の南殿が子を産んだことは、寧々と秀吉の夫婦喧嘩にも何らかの関係があると思われる。

 

家康

最初から織田家の人質だった。

十八松平→、松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに鼠算式に分家したルーツを持つ松平家の俗称

御所(足利将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ。

 

三方が原の惨敗を信玄を持ち上げることでしかたないことにした。

 

認知的バランス理論

共通の「敵」を共有することで、本来気が合わない相手とも協力関係を築ける

 

謙信

謀反を起こされたランキングで謙信は信長と並んで、双璧

 

伊達政宗が白い布で右目を隠していたという記録はあるが、刀の鍔の眼帯をしていたという記録はない。

 

 

五常

仁に過ぐれば弱くなる。 

義に過ぐれば固くなる。

禮(れい)に過ぐれば諂(へつらい)となる。 

智に過ぐれば嘘をつく。

信に過ぐれば損をする。

 

 

久秀の首は安土城に運ばれたので、爆死していない。

久秀の死後、多羅尾光信が「平蜘蛛茶釜」の破片を拾い集め、再び元の形に復元した。実際に、復元された「平蜘蛛茶釜」は、光信の父・綱知が茶会で用いた記録がある。

 

織田信長に負けた松永久秀が「平蜘蛛茶釜」とともに爆死したのは、ウソ(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース

 

真っ直ぐな性格で信頼された石田三成。子は全員生きのびて大切にされていたって? | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!