akon2.00βのよっぱらいの戯言

色しょく是食、食しょく是色 当サイトではアフィリエイトプログラムを利用して商品を紹介しています。また、一部AIを使用しているため不正確な内容があることがあります。

中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢

 

中先代

鎌倉幕府の北条氏を「先代」とし、室町幕府の足利氏を「当代」とし、その間にあった者、」というのは北条時行を「中先代」。

 

得宗

鎌倉幕府の北条氏嫡流の当主。2代執権の北条義時法名に由来。

 

征夷大将軍

頼朝は「将軍」に勝る権威を得るために「大将軍」を望んだ。

 

将軍→執権→得宗

 

文保の和談(両統迭立)は成立しなかった
持明院統花園天皇から、大覚寺統後醍醐天皇へ譲位する。
・その後は、10年ごとに両統が交互に皇位を継承する(両統迭立)。
後醍醐天皇量仁親王への譲位を行わなかったので、文保の和談

幕府は不介入の原則を貫いた

 

高時

暦の騒動

高時の実子邦時が成長するまでの中継ぎとして金沢貞顕を推す長崎氏と、弟の泰家を推す高時・泰家の母覚海円成ら安達氏が対立する騒動

結果として、最後の執権、赤橋守時が就任

 

1333年、14代執権・北条高時の同母弟、北条泰家は、幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍15万を率いて、北条氏庶流で副将の桜田貞国とともに分倍河原にてこれを迎撃したが、大敗を喫し、鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、陸奥国へと落ち延びた。

1335年、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏し、公宗と共に後醍醐天皇暗殺を企むも、事前に計画が露見して公宗は殺害された。泰家は追手の追跡から逃れて各地の北条氏に蜂起を促し、これに呼応した信濃北条時行諏訪頼重が挙兵して鎌倉将軍府を陥落させた。

しかし、鎌倉制圧はわずか20日ほどのことだった。京からやってきた足利尊氏の征討軍に敗れた。

 

鎌倉幕府滅亡から足利尊氏建武政権離反までのあいだ、全国でなんと26件もの反乱が勃発。

 

西園寺氏天皇外戚であり、幕府の関東申次

 

北条時行 挙兵から鎌倉までのルート

中先代の乱 北条軍快進撃MAP!

 

尊氏は木曽義仲以来の征東大将軍

 

桓武平氏(桓武天皇の子孫で平姓を与えられた者)の一支流の

上総常澄(平 常澄)の子はそれぞれ違う名字を名乗っている

長男:伊西常景
次男:印東常茂
三男:匝瑳常成
四男:佐是円阿
男子:大椎惟常
男子:埴生常益
男子:天羽秀常
八男:上総広常
男子:相馬常清
男子:臼井親常
男子:時田為常
男子:金田頼次

 

北条時行鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇南朝について足利氏と戦う

 

北畠顕家

1337年、吉野の後醍醐天皇の命を受けた北畠顕家は、義良親王を奉じ、京を奪還するため陸奥から再び西上。朝夷奈切通から鎌倉に侵入した顕家軍は、杉本城の斯波家長を破って鎌倉を攻略した(杉本城の戦い)。伊豆国から北条時行が、上野国から新田義興が合流。 鎌倉を守っていた尊氏の嫡男義詮は敗走し、安房に逃れた。

鎌倉を攻略した顕家は、鎌倉を発ち、幕府軍と戦いながら西上する)。

太平記』の物語では、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと描かれている。

石津の戦いで幕府執事高師直の軍に討ち取られて戦死