卑弥呼の時代の大阪湾

丹後王国をつくった半島横断船曳道

一世紀の頃、朝鮮半島と近畿の鉄の道は淡路島ルート
丹後半島横断ルート
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出雲の国譲り

出雲は島であったが、斐伊川が氾濫し、押し出された砂で出雲水道が埋まり、島が半島になってしまって、水路がなくなってしまった。
さらに、5世紀ごろから大型帆船になり、出雲はスキップされるようになった。
サバニ
Hentona Sabani ヘントナサバニ|沖縄の木造帆船サバニとは
卑弥呼の特使・難升米の洛陽へのルート

卑弥呼は物流、貿易を支配し、天気予報が重要であった。
卑弥呼の特使である難升米はツアーガイドであった。
倭国大乱は領土争いではなく、鉄交易の覇権争い
卑弥呼の時代、瀬戸内を航海できる船乗りはいなかった
神武東征は当時の刳り船(丸木舟)では不可能
瀬戸内海が通れるようになったのは5世紀、雄略の時代
雄略は瀬戸内海の啓開を行った
応神は河内平野の大王ではなく、朝鮮半島からの大王
雄略の瀬戸内海啓開
継体の「近畿水回廊」
敦賀から琵琶湖を経て淀川、難波津に至る水路を開拓した。
斉明天皇の石上運河をつくって、奈良盆地を水軍の基地にして、瀬戸内海だけでなく、敦賀にも出れるようにしょうとしたが、乙巳の変によって必要がなくなった。
大阪平野の開発は五世紀ごろから
古代瀬戸内海航路

百済・新羅の使節が瀬戸内海を通って難波に船を入れるようになったのは六世紀末。
敦賀・湖北ヤマト王国の都は「倭京」
目次
卑弥呼と海人の海は—九州それとも大和?
丹後王国をつくった半島横断船曳道
対馬海峡を渡った熟練の船乗り
卑弥呼の特使・難升米の洛陽への旅の謎
卑弥呼とは何者か?
卑弥呼の時代、瀬戸内を航海できる船乗りはいなかった
日本人はどんな船で旅をしたか?
航海王・応神帝の登場—帆船が日本海を行く
「倭の五王」とは何者か?—五世紀、日本海の隠された歴史
古代史最大の謎—雄略帝の瀬戸内海啓開作戦
継体王朝が拓いた「近畿水回廊」とは?
なぜ、「難しい波」と呼ぶのか?—「難波津」
「大化の改新」の陰に消された日本海洋民族の都「倭京」
遣唐使はなぜ頻繁に沈んだか
瀬戸内海 繁栄の船旅

