世界史で生き残った文明 サミュエル・ハンチントン
欧米、イスラム、中国、インド、日本文明
関ヶ原勝利後、なぜ家康はすぐ江戸に戻ったか
利根川東遷
家康は利根川の水を今のように銚子に向ける治水事業をしたくて、江戸にもどった。
縄文海進
6000年前、海は関東の奥深くまで入り込んでいた。

関東平野ではなく、関東湿地
比叡山は、京への侵入口、逢坂を見下ろしていた。
なぜ頼朝は狭く小さな鎌倉に幕府を開いたか
→京都は不衛生だった。
蛭ケ小島は島でなく、韮山町
車文明が日本では空白だった。
元軍の上陸を阻んだのは泥の土地
→牛車も騎馬も進軍できない
東海道五十三次→人が歩く街道
41番の宮から42番の桑名の間は海路
→泥の濃尾平野を超えられなかった。
両陛下は半蔵門を利用する。
大手門は諸大名の門
赤穂浪士は麹町に潜伏していた
松の廊下の刃傷が起きた当時、吉良邸は城内(呉服橋門)、北町奉行所の近くにあった。
刃傷後、両国橋の向岸、本所に移転した。
吉良上野介には嫡男がおらず、養子の義周が吉良家を継いでいましたが、討ち入りの影響で養子縁組が破談になったため、吉良家は断絶
朝廷との仲介で吉良家が必要であった。
「赤穂塩が江戸市場で優位に立ち、吉良領の塩のシェアを侵食した」という説を支持したい。
江戸初期、摂津国の佃村の漁師が舟で家康を渡したことが縁で、数年後に漁民が江戸に移住
対岸の洪水がこちらにこないように日本堤をつくった。
さらに、熊谷堤、荒川堤、墨田堤と囲み、隅田川を溢れさせて、
洪水が江戸に達しないようにした。
堤を維持するために、𠮷原を日本堤に移転させることで、
人々の往来で日本堤を踏み固めさせる。
さらに対岸の墨田堤には桜を植え、料亭を誘致した(向島の料亭街)。
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征夷大将軍とは、夷つまり狩猟するひとを、農耕するひとが、征伐すること。
毛利水軍は最後の夷だった。
幕末に欧米人を夷として結束を強めた。
人の交流は情報の交流
交流軸の都市は栄え、軸から外れると文明はすたれる。
桓武が大和川流域の奈良から淀川流域の京都へ遷都したことで奈良は衰退した。
大和川流域より、水と森が豊かな淀川流域を選択した。
家康は利根川流域の森林を選択した。
河川流域の森林が限界になると遷都が行われてきた歴史から、
大和川より小さな流域の邪馬台国から大和川の奈良盆地に移ってきたとすると、
大和川より小さな流域は博多湾に面する流域、つまり伊都国しかないということになる。

