装丁が南伸坊
国立料亭設立というアイデアはいいな。
一休宗純
後小松天皇の落胤。
母は後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄
後小松天皇の母は内大臣三条公忠の女の三条厳子
義満と厳子は密通していたことが殴打事件につながり、後小松の父が義満なら、
一休は義満の孫となる。そして、義満は自身のことを太上皇と考えていた。
6/2 朝 信長変死
6/3 22時 秀吉が信長変死の一報を得る
→信忠の死を確認したのが6/2 8時とすると、36時間で悪路の約200キロの備中高松に到着したことになる
→そもそも明智の密使は一人だけのはずはない
→このためには秀吉が一報を得るのが6/3の昼ぐらいでなければならない。
6/5 2時姫路に向かい80キロを大雨のなか7日から8日に到着する
→姫路城には不自然なほど多額の金子があった
そもそも小城に水攻めで50日もかける必要はない。
一方で、秀吉は敗戦などの撤退のために兵站を用意していただけという説もある。
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