光秀の進軍経路は、破軍の星(北斗星の第七星)を背中に戴くための迂回であり、計画的である。
信長が本能寺を選んだのは、小さいから。つまり、目立たず改造(=抜け道)をつくりやすいから。そして、南蛮寺にも地下蔵があった。
→「本能寺と南蛮寺の間には西洞院川があり、当時の土木技術では川の下には穴を通す技術がないので不可能」
秀吉の父は丹波者で穴掘り職人である前野一党(前野将右衛門長康は秀次失脚事件に連座)をつかってその抜け道を事前にふさいだ。蜂須賀、前野、美濃の斎藤も丹波者。
連歌の会の出席者は秀吉と交流のある紹巴一門で占められているので本音を歌うことはない。
その句も元句は「したしる」ではなく、「したなる」と改ざんされている。
むしろ、他の出席者がそそのかしている(罠にはめようとしている)。
紹巴は偶然事件当日の早朝二条屋敷付近に駕籠を待機させていて、徒歩で脱出してくる誠仁親王、若宮和仁親王を救った。
高松城の水攻めは忍城で三成が失敗したように堤が決壊する恐れがある。
このため秀吉は高松周辺で信長がすぐ来るような偽手紙をばらまいている。
光秀は連歌のあとに近衛前久と会い、ご綸旨をもらう約束で決起した。ただし、綸旨は光秀の手には届かなかった、
明智秀満は備前児島郡常山の国人三宅徳置の子。
三宅氏は後醍醐天皇が隠岐に流れた際に奪還を試みた忠臣。
農民に身をやつした前野将右衛門が桶狭間(山)で戦勝祝いに参上して油断させた。
長崎はポルトガル領だった。
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屯食
甑で蒸した米、強飯(こわいい)を大きく楕円形ににぎったもの
信長は降伏するみせかけて義元を桶狭間山に誘った。