蒙古襲来
対馬海峡を横断した際の波の周期などから船酔いしており、蒙古軍の3分の1ほどは満足に戦えなかった可能性を示唆する。
大型船は座礁のおそれがある浅い湾には停泊できず、300隻もの船がお互いに衝突しないためには、かなり広いスペースが必要。つまり、沖に投錨して、小型の船で兵士たちは上陸する。これだけの人数と補給物資の移動には、かなりの時間がかかる。
そもそも高句麗が六か月で大型船を300隻も新造できないので、中古の中型船が混じっていた。
よろいを装着して行軍する兵士1日の消費エネルギーから、全軍で毎日約40万個のおにぎりが必要。
つまり、かなりの準備が必要かつ、疲労なので戦力になるないことは想定できたので、秀吉自身は軍勢とは別に船で移動し、とにかく少しでも早く明智光秀追討の旗頭となり、現地で味方(高山右近、中川清秀、池田)を集めて、彼らを中心に戦った。
もし、信長が死んでいないのに、勝手に毛利と講和して、軍勢を返したとなると罪を問われる可能性があった。
あらかじめ敵の戦力を削っておいてから最後は大和を主体とする艦隊決戦を挑んで勝利するとアウトレンジ戦法を想定していた。
現実には、航空機と空母は戦争の前半で多くが失われただけでなく、巡洋艦や駆逐艦までが設計上の問題もあって次々に沈められました。もはや当初の戦略が成り立たなくなったことは、ある段階からは誰の目にも明らかだったはずです。