akon2.00βのよっぱらいの戯言

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空想:持統上皇の三河行幸

続日本紀によると、702年、持統上皇は、伊賀、伊勢、美濃、尾張三河の五国に行宮(行幸中の仮宮)を造らせ、10月10日に三河行幸し、12月22日は崩御した。
持統上皇はなぜ、死期が迫っているのに、三河行幸したのか、続日本紀にはなにも記述されていない。しかも、行きと帰りでルートが違う。これらにはなにか理由があるのであろうか。

壬申の乱の際に、軍勢を持たない大海人皇子は、渡会氏や磯部一族を紹介され、彼らの軍勢を得た見返りとして、乱後、伊勢を天皇の神たる天照大神を祀る最高位の神宮とし、三種の神器たる八咫鏡を差し出し、更に斎宮天皇の娘を人質に出した。さらに、度会氏や磯部氏をその神宮における禰宜の官職を与えた。そして、式年遷宮という方で国家財政によって支援した。
ところが、684年、白鳳地震の被害により伊勢は壊滅し、その力を失った。そこで、天皇の権威付けとなる新たな神道を作り、伊勢の内宮に荒木田氏(中臣氏)を神官として派遣し、伊勢神宮そのものを天皇の権威とするために持統は伊勢行幸したのではないか。

死期迫っていても持統上皇は、死期迫っているからそこ次世代の政権を安定させるために、行幸する必要があった。

そして、相次ぐ地震により、天武天皇が遷都を計画した信州遷都の実現可能性のために、信州信濃安曇野へのルートの実地検分を行ったのかもしれない。

さらに、大伴連馬来田、吹負は大海人皇子側であったものの、三河大伴氏は、壬申の乱に破れた大友皇子をかくまっている可能性があったので、三河行幸し、検分したのではないか。三河には戦後の恩賞が出ていないので、大海人皇子側でなかったと考えた。




日下部氏をたより宝飯郡に行き、そこで信州の情報を得た。しかし、信州鬼無里までの道のりは遠かった。そこで信州をあきらめ、新たに木曽ルートの確認をかねて尾張経由で藤原京に戻った。

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壬申の乱のときにも、表向きは体調不良ということで鸕野讚良(のちの持統天皇)は大海人一行と別れて伊勢にとどまったと記されていますが、代わりに、彼女を人質に差し出したのであろう。乱後、この人質は神に身を捧ぐ斎宮制度というに変化した。