akon2.00βのよっぱらいの戯言

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誤解だらけの徳川家康

 

wikipediaを基に書籍にしたような本。

 

幕臣の池田松之介が、伝徳川光圀作の遺訓「人のいましめ」をもとにして、家康の遺訓とした。

 

松平 親氏
江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖
上野国徳川郷で生まれ、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、同地の領主松平信重に婿入りした。

内乱を鎮めて家督相続を果たした今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれていた。

清州同盟はなかった
城を空けて清州城に訪問する余裕はなく当時は当主同士が顔を突き合わす例はあまりない。

桶狭間は、迂回奇襲ではなく、信長公記の正面攻撃が支持されている。

徳川姓では叙位任官の前例がないため、源氏から藤原氏に改姓させた。
正親町(おおぎまち)天皇は家康を公家として処遇したかったが、家康の家系の徳川では先例がなかった。ところが、徳川の源氏には二つの系統があり、惣領(そうりよう)の系統が藤原氏になったという例が報告された。この情報を知らせたのは、吉田兼右(かねみぎ)だった。そこで、家康の本姓を「源」から「藤原」に変更することで、右の叙位任官が叶ったのである。当時は先例を重んじる気風があったので、こうした「裏技」を使ったのである。
https://www.gentosha.jp/article/21488/

 

以下、wikipediaの記述の方が分かりやすい。

松平清康のとき、世良田氏の後裔だと源氏を称する[要出典]。清康の孫である家康は、三河守任官を朝廷に働きかけて正親町天皇に「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」との理由で拒否された[要出典]。そのため近衛前久に対処を依頼し、世良田氏で、世良田義季得川義季)の末裔ではあるが、世良田頼氏の嫡男と弟から、源氏から藤原氏支流へ分流したと称して得川氏の末裔として字を変え「徳川」への改姓と藤原氏への本姓変更ともに従五位下三河守に叙任された(近衛家文書)[5]。30数年後に関ヶ原の戦いの勝利後、慶長年間に吉良家の系図を借用し細工し、源氏に戻し[6]、徳川氏は世良田氏直系の源姓で得川氏を復活した氏族であるということにして、家康は征夷大将軍に就任した。


千人が一斉射撃することは難しい


騎馬軍団は存在しなかった。

家康は信長に従う選択をし、信康は武田に従うことを選択したので、信長の意向ではなく家康の意向で信康に自害を命じた。

光秀の饗応事件は事実関係が信用できない。
信長が光秀に不満を持っていたならば、佐久間信盛のように厳しい処罰を科していた

信長は家康を討とうとしていなかった。

足利義昭が追放されるまで、信長と家康は対等であった。


神君伊賀越えのルートは不明
信長の唐入りの計画があったかは不明

三法師は織田家当主の信忠の子だったので、そもそも家督を継ぐことに決まっていた。
問題になっていたのは、三法師の後見人を信長の次男信雄か信孝かと、
信長の遺領の配分。
したがって、信雄と信孝は家督争いではなく、
信雄の尾張と信孝の美濃との国境をどうするかであった。


香宗我部親秀は、長宗我部元親の弟親泰を養子とした。


五大老は奉行、五奉行は年寄と当時呼ばれていた。
五大老は諸大名対応、五奉行は豊臣家直轄領の管理。

七将は三成を襲撃したのでなく、訴訟を起こした。

三成が家康に助けを求めたのは虚構
三成が家康の伏見屋敷に逃げ込んだことは二次資料にも書かれていない。
三成は伏見の自邸に増田長盛前田玄以とともに立てこもり、そこに家康が手を差し伸べた。

直江状偽書
兼続には後継者たる男子はなく上杉家は直江家が断絶したことを利用して責任を転嫁した。

三成と兼続の事前盟約はなりたたない


三成が隠退後、子の重家が豊臣家に仕え、佐和山は父正継が支配した。

小山評定はなかった


秀忠が中山道を行軍したのは、リスク分散のため

徳川四天王のうち、井伊直政だけが三河以外の出身者

 

吉川広家が毛利家存続に貢献した事実はない。

 

二重公儀体制

真田昌幸は生活そのものが苦しかったので、打倒家康どころではなかった。

後藤基次真田丸に入場予定だった

堀の埋め立ては豊臣方も了解済みだった。

地雷火は実存しなかった。

家康の影武者はいなかった