akon2.00βのよっぱらいの戯言

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東葛の中世城郭

 

 

通っていた小学校の向かいは城跡だと教わるがただの林にしか見えず、そのさきの照姫伝説の三宝寺池も堀にはみえないという幼少時代を送ったので、いま住んでいるあたりは、逆にとくに立札がなくても城ぽく感じたので読んでみるとやはり城跡らしいことがわかる。
そして、このあたりに住んでいると関宿城が水陸交通の中核とわかるのに、なんで近藤勇は流山に本陣を置いてしまったのかと思う。すでに薩長軍が松戸を押さえていたのかもしれないけど。

松戸城

城址は標高20~25mの高台にあり、遺構としては、曲輪、空堀や土塁の一部を確認することができるが、殆ど見分けがつかない。しかし、城跡北部は旧水戸徳川家別邸「戸定邸」及び戸定歴史館を中心に戸定が丘歴史公園として整備され、南部は千葉大学園芸学部の敷地になっている。城域は台地の北東に対峙する千葉大付属農場と台地の間に南東方向に走る谷津によって区画されていたと考えられ、さらに谷津先端部が千葉大浩気寮付近から南へ折れ、プールやテニスコートがある突き当りの低地により城跡の舌状台地が断ち切られていたと推定されている

 

と松戸城とはつゆ知らずテニスをしていた(口伝で陸軍の跡地だからむやみに耕してはいけないといわれていた)。また、松戸駅イトーヨーカドーがあるあたりも城をかまえるにはいいところだと思っていたら相模台城があったらしい。さらにうちの近所には、中金杉、幸田、前ヶ崎、名都借、幸谷、小金、向台館、根木内、行人台と認識していた以上に城跡だらけ。

 

このあたりは高城氏(頼朝の挙兵に参加した千葉氏の一族)がおさめていたらしい。

歴史的には、国府台合戦で、北条氏康が陣を構え、対する小弓公方足利義明国府台に陣構えた。さらに、小田原征伐では高城胤則が北条方の一員として小田原城の籠城に参加し、その間に小金城は浅野長政によって包囲されて開城した。

また、戸定邸徳川昭武が造った別邸で、戸定とは「外城」に由来し、戸定邸のある高台・戸定台は、一帯に築かれた松戸城(松浪城)の外郭に位置したという。学部内の宴会施設は戸定館と呼んでいたと思う。校舎から戸定邸が見下ろせたが、花火大会くらいしか屋上には上がらなかったと思う。

 

巻末に高城氏ではなく、相馬氏の略系図が記載されているのは興味深い。沼南の高柳城を相馬岡田氏が領していたからかもしれない。