タテの共同体たる宗族とヨコの共同体たる幇。
宗族とは、父と子という関係を基にした父系集団である。父から子という形で集団を作り、姓を同じくする。そして、部外婚制、つまり、同一宗族のなかでは結婚できない。
血統の表示として共同の姓を有するばかりではなく、共同の始祖と祭祀とを有し、その内部に一つの族的統制がある。
つまり、日本には血族社会ではない。
古代ベドウィンの倫理・道徳において不倫・非道とは、まず、卑怯未練であって、あるいは未熟であって、まともな戦闘ができないこと。戦う民たる古代ベドウィンにとってこれほどの不倫・非道はない。 略奪、強姦、虐殺ができるのにそれをやらないこと。これもまた、古代ベドウィンからすると、たいへんな不倫・非道徳。
人間関係の軽重は、相手の待遇の軽重
中国では訪ねていく方が下、訪ねられる方が上。
賄賂は額の多少よりその志が重要
お金は触媒。
賄賂は必ず有効でなければならないというルールはない。
中国では、価格は、市場法則だけによって決まるのではない。価格決定に情誼という人間関係が入り込む。売手の情誼が深いほど、安い価格で買手に売る。中国における賄賂も、このようなものだ。
資本主義社会とはちがって、中国では契約は絶対ではない。契約の背後にある人間結合の軽重により、契約は軽くもなるし重くもなる。契約が守られるかどうか、どこまでどう守られるかは、その背後の人間結合によってちがってくる。
欧米諸国にも「養子」制度はあるが中国とも日本とも全くちがう。養子に相続権がないのである。いちばんはっきりわかるのは、養子に爵位の相続権がないこと。
日本の苗字(名字)は、本来、場(field)であるから、原則として自由に変更できるのである。これに対し、中国人の姓は、属性(ascription)であるから変更できない。
契約書で大切なのは、契約が結ばれたこと自体であり、契約の内容ではない。契約が結ばれることにより、交渉は新段階に入るとともに人間関係も新段階に入ったことを意味する。極言すれば、契約の内容なんかどうでもいいのである。
情誼と幇の違いは利害の有無
資本主義は諸共同体が解消し、普遍規範が成立することによって完成する。
逆に普遍規範以外の規範などは消滅し、諸共同体が解消される。
日本はいまだに資本主義としては不完全であるから、諸共同体が残存している。
日本では、農村から都市へ対規模な労働力移動が始まり、村落共同体が崩壊し始めている。
日本には血縁共同体はなく、地縁共同体も宗教共同体もない。日本の共同体はすべて協働共同体。
このため機能集団たる会社が共同体になった。
資本主義は共同体を解体するところに生成され発達する。日本の会社の多くは共同体で、日本資本主義の後進性を如実に表している。
中国人にとっての法律
近代資本主義社会においては、事情変更の原則は認めない。中国人はやたらと事情変更する。
日本には大宝律令に始まる律令(律は禁制法規であってすべからざることとそれに違反した場合の刑罰を定め、令は教令法規であってすべきことを挙げる)しかなかったので、法という考え方がなかった
日本の近代法は国民生活のためではなく条約改正のためだった。
儒教の目的はよい政治をすること。
韓非子はよい政治を行うためにはまず法律を作りなさいと言った。
五・一五事件で内閣総理大臣犬養毅が殺害さけたが、軍律を正すという概念がなく、死刑にせず、二・二六事件を引き起こした。
中国は宗族制度なので、処刑する場合も九族(宗族)皆殺しする。子孫がいるとお祭りをしてもらい生き返るから。
中国の王朝は、うわべは儒教だけど実際は法家の思想で国を治めていた。
欧米法の中心は民法だが、中国法の中心は刑法。
忠臣蔵において、藩の動産を所領没収した将軍家でなく、相続人の浅野大学でもなく、勝手に家臣で分配した。
つまり、占有と所有の区別がない。
日本では、公認会計士は株主が雇うのではなく、経営者が雇うので、株主による経営者の経営責任追及はできない。
所有概念がないから、どこまで自分のモノで、どこから先が他人のモノかわからない。
官吏
官→科挙試験に合格した高級官僚
吏→官が自費で勝手に雇った役人
法は王のためにある。役人は勝手に解釈してよい。
目次
第一章 中国人の理解の鍵は「帮」(ほう)にあり
第二章 「帮」を取り巻く多重世界
第三章 中国共同体のタテ糸「宗族」
第四章 中国人の意識の源流に韓非子あり
第五章 中国の最高聖典、それが「歴史」
第六章 中国市場経済はどうなっているか