akon2.00βのよっぱらいの戯言

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加藤 清正の実像

賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石[注釈 3]の所領を与えられた。
、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果
今日の研究では清正の立身は羽柴家の財務・民政における功績の部分が大きく、賤ヶ岳の戦功は異例に属していたとされ

清正は賤ヶ岳の戦い以降、小牧・長久手の戦い四国征伐、九州平定に参加し、ほとんどが後備として秀吉の周囲を守るか後方支援に当たるかしていた[3][2]。例えば、小牧・長久手の戦いの時に作成されたとみられる陣立書が残されているが、そこに記された加藤虎介(清正)の動員兵力はわずか150名であった[4]。『清正記』などの清正の伝記にはいくつもの武功に関する記載と秀吉からの感状の引用が記されているが、それらは全て創作である[2]。当時の清正が秀吉から期待されていたのは、豊臣政権の財務官僚としての役割であった。記録で確認できるだけでも豊臣氏播磨国和泉国にあった蔵入地の代官、九州平定後の上使としての戦後処理、尾藤知宣が改易されて闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまで代官として臨時に統治業務にあたる仕事などが知られてい

文禄・慶長の役
肥後一国を与えられる前は170人程度の軍勢を指揮するに過ぎなかった清正が、1万人単位の兵を率いる立場になってから初めての大規模な戦い。
このため、先鋒を秀吉に願い出たもののの小西行長に命じられる。
当然、京城の一番手は小西でなければならない。
しかも、加藤隊2万2千800のうち、鍋島が1万2千、相良が800である。
そして、加藤隊はここまで戦闘がない。

漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し、臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。
→正確には、黒田隊の後藤又兵衛の一隊をみて朝鮮軍が退却した。

その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克諴の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。
つまり、加藤隊が戦ったのは、韓克諴の朝鮮軍とだけである。


朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承
黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている)

慶長伏見地震
秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許されたとされる「地震加藤」の逸話があるが、この話も清正が地震の2日後に領国に送った書状[8]の中に秀吉一家の無事とともに、「(自分が無事だったのは)伏見の屋敷が完成していなかったから」「(地震の為に)京から胡麻を取り寄せて領国に送るのが遅くなる」とあることから、清正がいたのは(伏見でも京でもなく)大坂であったことが推定され、清正が大坂から伏見の秀吉の許に駆けつけた可能性はあっても、真っ先に駆けつけたとする逸話は史実ではなかったとみられている