この方の論理展開は独創的です。
聖徳太子は突厥可汗達頭、西突厥の王(可汗)達頭。
西突厥は高句麗と連合して隋に対抗していた。
隋に敗れた聖徳太子は高句麗から百済を経て倭に亡命。
蘇我一族の承認を得て、斑鳩に君臨。
608年隋より使者が来て、隋と聖徳太子は講和を結んだ。
隋は滅び唐になった。
622年聖徳太子が死去して、山背大兄王が即位した。
ホスロー二世の冠が同時代の西突厥の達頭(タルドウ)、私の推測する聖徳太子の冠と酷似しているからwww
「廐」は音読みで「キョウ」と読むのです。「戸」は「と、ど」ですが。
そうすると、「廐戸皇子=キョウド皇子」になるのですよ。
キョウドと言ったら「匈奴」のことなんですが。
http://tacchan.hatenablog.com/entry/2015/07/14/043648
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額田王(文姫)と鏡王(宝姫)は姉妹。
額田王は、父百済の武王(舒明)と母新羅・加羅系(金庾信の一族)の子で倭国で生まれ
10代のときに新羅王金春秋に嫁ぎ、百済の義慈王に追われた中大兄ともに倭国に帰国した。
新羅の文武王(文武)は大海人皇子の子で、母は鏡王(宝姫)。
この関係で、白村江では新羅は唐に味方しなかった。
中大兄は百済の亡命王子
大海人皇子は高句麗の将軍蓋蘇文
中大兄は大海人皇子と縁戚になるために、妹額田王を与えた。
そして、ともに蘇我氏と山背大兄王を討伐した。
結果として、ともに舒明の子である、中大兄と、蘇我氏が推す古人大兄との皇位争奪戦になった。
古人大兄は馬子の子でもある。
白村江の敗戦で中大兄と大海人皇子は対立
大海人皇子は縁戚関係を解消するために額田王を家臣の中臣大島に下した。
大海人皇子は壬申の乱の前に、天智の正妃で、古人大兄の娘倭姫王の即位を進言し、天智の即位を阻もうとした。
641年中大兄は嶋、耽羅(済州島)に流された
642年高句麗の将軍蓋蘇文が新唐派の高句麗栄留王を殺害し、前高句麗王の子太陽王の子宝蔵を高句麗王として
新唐国の新羅を攻め、さらに644年唐が認知している山背大兄王朝を滅ぼした。654年高市皇子は天智の長子で済州島で生まれた。母は済州島の島氏?高氏?。
高向玄理が追放され入唐659年新羅王金春秋(額田王の前夫の武烈王)は唐に百済・高句麗戦への援軍を要請。
蘇定方が百済を滅ぼし、義慈王を捕虜にして凱旋。
斉明天皇は舒明天皇の皇后になる前に、高向王と間に漢皇子を生んでいた。
この高向王が高向玄理である。661年斉明天皇帰国。武烈王謎の死。斉明天皇没
大海人皇子と鏡王(宝姫)の子法敏、文武王(文武)が新羅王になる。661年百済再興のために、百済からの亡命王子中大兄らが出兵。
661年に来日した耽羅王子阿波伎が高市皇子である。
大海人皇子は壬申の乱の際に自分の子供は幼くて頼りにならないと嘆いているが、
当時、高市皇子は19歳なので、大海人皇子の子ではないということになる。
戦後の賞罰も高市皇子が行ってやり、大海人皇子は即位まで表に出てきていないので、
壬申の乱の当初は、高市皇子と大友皇子の内乱であったが、途中から大海人皇子が奪った。十市皇女は天武天皇の第一皇女(母は額田王)、大友皇子(弘文天皇)の正妃。
壬申の乱で父天武に「鮒の包み焼きに密書を隠した」という逸話は信ぴょう性はない。662年大海人皇子は前百済王義慈王(孝徳)の子扶余 豊璋を百済王にした。
665年筑紫に耽羅王子姑如来日。
高句麗と百済をバックに間人皇女を擁立して大和にいる大海人皇子に対抗して、天智は耽羅を味方につけ、即位。665年間人皇女没。即位の一年後であった
この年、唐は劉徳高を倭に派遣し、中大兄と講和し、即位と大友皇子の立太子を認めた。
弓削皇子は文武の即位に反対したが、文武と対立関係にある天智の孫の葛野王や兄の長王子は反対しなかった。
弓削皇子は吉野に幽閉された668年新羅文武王は大海人皇子の支援を決め、倭に使者を送り、鎌足は新羅の将金庾信に船を送った。
これは大海人皇子が兵をあげるための援軍となることは明確で、
このことによって天智は鎌足に賜死を与えた。
671年郭務悰の軍が筑紫に到着
671年天智失踪
671年大友皇子、即位
書記では、大友皇子が詔を下しているので、即位していたと考えられる。
この記述をもとに明治政府は弘文と諡したと考えられる。天武→大津→高市→文武(天武の子)の順で即位した。
文武(新羅の文武王)は唐と対立する天武の子であったため新羅に亡命
672年壬申の乱、大友皇子(弘文)、死去
673年金庾信が死去することにより、新羅の親唐派が反乱を起こし、新羅王の文武王は倭に亡命。
675年天智が上位を表明し、土佐から神刀が献上された。
再び耽羅王子姑如来日
678年文武王は耽羅国を滅亡させた。
681年草壁皇子、立太子
681年文武王倭に亡命
682年天武、日本海から中国東北部に逃亡中に殺害
683年大津皇子、即位。元号を朱雀と改めた。
686年鸕野讃良と草壁皇子に実権が移る。大津皇子、謀反の罪で、殺害される。
689年草壁皇子、死去
690年高市皇子、即位
697年新羅王の文武王が文武として即位7世紀、イスラムの台頭によってササン朝は事実上滅亡し、
亡命先のインドからトハリスターン(現在のアフガニスタン北部)に逃れた
ササン朝王子ペーローズは南洋航路を使って倭にわたり、さらに妻と娘を倭に残して
ササン朝復興のために唐にわたった。
この娘堕羅女が山辺皇女だ。
このため、大津皇子は皇位をかけ、やぶれた。高市の子長屋王は藤原一族によって滅亡させられているため、
高市の即位の歴史を抹殺しないと皇位の簒奪になるため改ざんされた。穂積皇子と磯城皇子は長屋王に暗殺される。
天智の子、母かじ媛娘(宍戸大麻呂の娘)志貴皇子とは別人
長屋王は文武の子新羅聖徳王の異母兄弟聖武を即位させる。
聖武の母は元明不比等の死後、長屋王と対立するようになった藤原一族は渤海から文武の子をつれてきて、聖武と入れ替えた。
そして、長屋王一族を滅亡させた。
大伴室屋の孫の金村の子の狭手彦は高句麗に出兵し
金村のもうひとりの子大伴 咋も高句麗に出兵し任那の救援に向かっている。
雄略→百済昆支王
敏達→高句麗威徳王
欽明→百済聖明王
舒明→百済武王
孝徳→高句麗太陽王・百済義慈王
天武→高句麗淵蓋蘇文
文武→新羅文武王
714年大伴安麻呂没
710年平城京に遷都
715年不比等に支えられた元明から元正に譲位。
717年物部石上麻呂没。元正朝の軍事的背景を失う
718年大伴旅人中納言に
720年藤原不比等没。長屋王と舎人親王との対立が激化
721年元明上皇没
723年元正天皇、幽閉
724年元正天皇、首皇子()に譲位。元正太上天皇へ。ただし、ここで死亡している。
727年渤海使者高斉徳入京。文武天皇こと新羅文武王の子
729年聖武天皇暗殺。高斉徳がいれかわり新聖武に。長屋王の変。長屋王一族滅亡
731年大伴旅人、暗殺
748年元正太上天皇の死を発表
749年孝謙即位