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考古学は歴史学の代替とならない。
考古学は物質であり、言葉がない。
歴史は世界観を言葉で表現したものである。
物質は借用できる。
中国の歴史書に出てくる日本に関する記述が信頼できない例として、明史日本伝の信長の記述がある。
https://ameblo.jp/kura-0-kura/entry-12071180365.html
魏志倭人伝などもこの程度であろう。
夏・殷・周などの古代王朝は、黄河の渡河点である、洛陽や鄭州あたりを中心とした都市国家で、この都市国家は渡し場で開かれる定期市が原型である。
ここで発生した商人集団の頭が王(往)であった。
古今集の序で紀貫之が和歌の開祖は華僑の王仁だと述べている。
日本の建国者も華僑である。
邪馬台国
三国志の著者である陳寿は晋の張華によって見出された。
張華は司馬氏に恩があり、司馬氏の政治的配慮のために筆を曲げている。
司馬懿の功績を持ち上げるために、卑弥呼の国を敵国呉の背後の熱帯の大国とした。
これは司馬懿のライバル曹爽が229年クシャン王ヴァースデーヴァの使節の中国訪問を実現させた際に、魏の明帝がヴァースデーヴァに対して親魏大月氏王の称号を贈ったので、これと同様の名誉を司馬懿に与えるために卑弥呼が担ぎ出された。
このため魏志倭人伝の諸国が南に並んでいる。
筆者は南ではなく瀬戸内海に東に向かって並んでいるとしている。
邪馬台国は300年晋が滅ぶとともに史上から姿を消す。
筆者は「邪馬台国は幻影だ」としている。
代わって、仁徳天皇の河内王朝の倭国大王、すなわち、宋書の倭の五王が難波に出現した。
旧唐書倭国の条には、「倭国は古の倭奴国なり」という記述がある。
この時代、倭国と勢を争ったのは紀伊国と吉備国である。
邪馬台国の勢力圏の東端を難波とすると、終点の狗奴国は紀伊国となる。
隋書の東夷列伝によれば、607年倭王多利思北孤(たりしひこ)の使いが隋に朝貢した。
有名な「日出づる処の」の国書である。
この時代の天皇は推古天皇で、使いを送ったとされる多利思比孤には雞彌という妻がいたということや「~ヒコ」という名前からわかるように「男性」である。
さらに利歌彌多弗利という太子がいた。
奏王国は邪馬台国
そして、隋書によると、609年の隋使は竹斯國(博多)のつぎに奏王国に寄港したことになっている。
そこから十余国を経て倭国の海岸に至る。この倭国の海岸は、日本書紀によれば、難波の津である。
魏志倭人伝では、奴国(博多)から、不彌国、投馬国を経て邪馬台国であり、邪馬台国から先は、斯馬国などの二十国を経て、もいひとつの奴国に至る。この奴国が難波の津であるならば、奏王国は邪馬台国ということになる。
中国の皇帝が、朝鮮半島の楽浪郡という中国の出先機関を通じて貿易関係のある倭人の酋長のなかから、博多港の酋長を選び出して、王の称号を与えたもの。
そもそも博多に国家があったわけではない。
倭国王とは、領事のようなものなのである。
光武帝が中国を統一するまでの20年にわたる戦乱で、楽浪郡は倭人の百余国の面倒が見れなくなった。そもそも、百余国といっても中国の言う国は都市であった。この戦乱で、倭国王は中国の後ろ盾を失い、卑弥呼がたてられた。
卑弥呼の鬼道というのは倭人のシャーマンではなく、中国商人ネットワークの祭司であるので、中国皇帝の後ろ盾を必要としなかった。
670年、阿曇連頬垂が日本国の使者として新羅に行っている。
669年、河内直鯨を大唐に使いとした際は倭国であった。
中国文化では、国名を変えるということは革命があったことを意味している。
このころ、百済と高句麗が滅亡し、朝鮮半島の南を新羅が統一した。
日本は唐と新羅を敵に回してしまった。
朝貢は貿易ではない、ましては中国の皇帝に対して臣下の礼をとることでもない。
友好のしるしに、手土産をもっていって皇帝に会うだけである。
四世紀後半から七世紀初頭
九州の諸国の西の衆夷の六十六国を制圧した。
河内王朝→仁徳から清寧まで
播磨王朝→顕宗から武烈まで
越前王朝→継体から聖武まで
それぞれつながりはない。
古事記は平安初期の偽作である。
・元明天皇が太安万侶に編纂を命じた記録とか、元明天皇に献上した記録がない。
・奈良朝時代の書籍のいずれにも古事記が引用されていない。
・新撰姓氏録に古事記からの引用がない
日本書紀の神武は天武の行動をヒントに書かれたもの
歴史はすてべの事実ではない
ある一部が意図をもって、ある側面から記録されている。
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聖徳太子の肖像とされていた「唐本御影」、もしくは「聖徳太子及び二王子像」、
かつては一万円札などの紙幣に使われていた。
しかし、ここに描かれている服装や冠などが、聖徳太子が生きた飛鳥時代のものではなく、早くとも奈良時代となる8世紀頃のものと考えられている。