akon2.00βのよっぱらいの戯言

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戦国期細川権力の研究

 

 

第一部 細川権力の基本構造と高国期の変容
第一章 奉行人奉書にみる細川京兆家の政治姿勢――勝元期から政元期にかけてを中心に――
細川家の発給文書が、応仁の乱等を受け、徐々に室町幕府が従来担っていた役割を帯びるようになっていく。細川家が能動的にそうしたというより、寺社等受益者の期待・要請に応える形でそうなっていった。

 

第二章 細川高国の近習とその構成――「十念寺念仏講衆」の紹介と分析――
高国の時代から雑多な出自(有力国人等)の者を「近習」として登用し、この新興層は守護代等既存の有力配下との軋轢を生む。

 

第三章 細川高国の近習と内衆の再編
高国が波多野兄弟等(波多野元清、柳本賢治、香西元盛)の新興近習を重用しつつ、宿老たちとの関係配慮もかなりバランスよく統治していた。

 

第四章 摂津守護代薬師寺氏の寄子編成
細川京兆家の被官が、守護代に寄子としてつけられていた。

守護代は寄子と直接主従関係を結ぶ(戦国領主化)ことを必ずしも志向するのではなく、寄子の「京兆家被官」という家格の高さを活かして地域統治に役立てていた。

 

第二部 澄元・晴元派の興隆
第一章 細川澄元陣営の再編と上洛戦
細川澄元(細川讃州家=阿波細川家出身)も含め、京兆家当主と讃州家は一体で活動しているように思われがちですが、実際の両者の権限はかなり厳密に区分されていた。その中で、両家を軍事的に結びつけるためには、京兆家・讃州家双方に属している三好家の両属特性が重要だった。

若年の澄元や晴元、および細川持隆を支える「意見者」として、讃州家出身かもしれない僧「光勝院周適」、「可竹軒周聡」が暗躍活躍していた。

 

第二章 「堺公方」期の京都支配と松井宗信
堺公方は、細川晴元を盛り立てようでは一致しているものの、将軍は義晴派(柳本賢治、松井宗信)と義維派(三好元長)で対立があった。

 

第三章 「堺公方」期の京都支配と柳本賢治
堺公方府期の柳本賢治の元細川高国近習としての特性を発揮して京・山崎(・奈良)の都市支配を進めたり、実は朝廷とも親しくしていたり、その過程で京都の下位身分の者を抜擢して配下にしていた。

 

第四章 三好元長の下山城郡代
元長さんの下山城統治スタイルとして、畿内の人間を使わず、仲のいい阿波の国人を郡代として配置して、一種の軍政のようなことをしていた。

三好家自慢の阿波武将を引き連れて都会を支配しようとする元長。

 

第五章 畠山家における奉書の展開と木沢家の出自
木沢家の家格は一貫して奉行人であり、守護代層とは明らかに区別される。

 

第六章 木沢長政の政治的立場と軍事編成
木沢長政は家格的にはそんなに上位ではないものの、細川家・畠山総州家両属に加え、足利義晴と直接関係を結んで「守護並み」の権限行使の黙認を得、自立化の道を拓いたり、細川家守護代同様、寄子を活用して軍事編成を進めり、新興勢力として、遊佐長教さんと競合しない河内・大和の境界線上で勢力を拡大したり、次々と居城を移すスタイルを確立したりと、後の三好長慶たちへ繋がる。

 

第七章 細川晴元の取次と内衆の対立構造
細川晴元は、京兆家の伝統的権威を継承しつつも、内実は三好長慶三好政長、木沢長政らの新興内衆の台頭が著しい、新興勢力に等しかった。しかも、内衆同士の対立も激しく、実際に木沢長政は三好長慶三好政長んの計略で排除されてしまった。

 

第八章 細川晴元に対する交渉と取次
細川晴元と交渉するにあたって、窓口となる大身取次の三好長慶三好政長、木沢長政の意向に左右されるところが大きかった。結果として、細川晴元本人ではなく、三好長慶たち大身取次の方に集まっていく。

 

第三部 高国派残党の蜂起
第一章 細川晴国・氏綱の出自と関係――「長府細川系図」の史料批判を兼ねて――
高国残党と晴国・氏綱は、両者の間には連続性がない、それどころか軋轢さえ確認できる。

 

第二章 細川晴国陣営の再編と崩壊――発給文書の年次比定を踏まえて――
大物崩れにより壊滅的な被害を受けた高国方を、晴国が丹波を拠点にして勢力を再興していき、内藤国貞、波多野秀忠、三宅国村たちが順次晴元方に寝返っていき、晴国は遂に自刃に追い込まれてしまう。しかも、寝返った方は順調に勢力や地位を向上させている。つまり、細川家の争いが容易に収束しないのは、上の対立を利用して立身出世を図ろうとする領主層の動きに下支えされている面もある。

 

第四章 細川国慶の上洛戦と京都支配
国慶柳本賢治の京都支配を一層進め、今村慶満など地下の者を積極的に登用し、都市社会の実態を知る者による統治体制を構築した。

 

第五章 細川京兆家の内訌と京都の土豪――今村家の動向を中心に――
大名や国人だけでなく、今村家など土豪層も対立や分裂を繰り返していた。おおきくは京都の土豪が高国派、京都郊外の土豪が晴元派についたりして、それぞれの権益確保・拡大を図っていた。その中で今村家も慶満は高国・氏綱派、弟の政次は晴元派に立って上手く生き残ろうとしていた。

 

第六章 内衆から見た細川氏綱三好長慶の関係
江口の戦い以後、いきなり長慶が氏綱を傀儡にしたのではなく、当初は両者の共同統治であり、そこから段階的に長慶の権威・権力拡大が進んでいった。

 

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