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明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか

 

 

信長の側室で明智光秀実妹もしくは義妹と伝わる御妻木の死によって、信長の近親者でなくなったことが本能寺の変の遠因としている。一方で、帰蝶明智光継もでてこない。伊勢貞興についての言及も甘い。室町幕府の政所頭人の家柄でありながら、光秀の家臣となって山崎の合戦まで従ったのか。

 

無年号文書

→政権が目まぐるしく後退した結果

 

医学の知識があったので、医者である施薬院全宗のところに泊まっていた。

 

光秀は土岐一家の人物で、牢人となり、越前の長崎称念寺の門前で十年間暮らしていた。

 

一乗谷は京からの没落者の拠点だった。

ここに光秀がいて、義昭も逃れてきた。

義昭方として、対三好戦に参加、足軽衆になる。

 

永禄11年1568年、義昭が信長に奉じられて入京した際に、光秀も帯同した。

本書では引用されていないが

「細川家記」には、
明智光秀は、その臣の溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余騎をもって七月十六日に、朝倉の一乗谷から出てきた足利義昭に供奉させ、穴間の谷から若子橋を越え仏ヶ原のところでは、明智光秀は自分から五百余の私兵を率いて待ち、ここから美濃の立政寺へ二十五日に赴き、二十七日に信長と対面」

とある。

元亀元年1570年に、はじめての所領を義昭から山城下久世荘の一職支配を認められた。つまり、所領を持っていない時期に、私兵を養っていた。

 

「信長、岐阜城より上洛し、明智光秀邸を宿所となして泊り、三月一日に禁裏へ伺候」

姉川合戦の後にも、宿を提供しているが、近習は野営させたのか。

 

目次

第一部「明智光秀の原点」

第一章「足利義昭足軽衆となる」=「史料が語る明智光秀の生涯/更新された史料初見」「西部戦線異状アリ/足利義昭足軽衆』の構成」「一乗谷=牢人たちの巣窟」

第二章「称念寺門前の牢人医師」=「明智十兵衛尉という牢人/牢人の生計手段」

第三章「行政官として頭角を現す」=「足利・織田連合軍の構成/光秀の生年」「大和国進軍/主君を呼び捨てる軍団」「物見遊山の後始末/最初に獲得所領」

第四章「延暦寺焼き討ちと坂本城」=「宇佐山城主・光秀/延暦寺焼き討ち」「撫で斬りの男/愛宕権現への信仰心」「押領を進める光秀/義昭からの叱責」「坂本築城と出世」

 

第二部「文官から武官へ」

第五章「織田家中における活躍」=「連立政権の解体/義昭の再蜂起」「朝倉・浅井の滅亡/京都代官の兼任」「激務に奔走する/京都代官の実態」「信長の道路政策/荘園制終焉への『道』」「伊勢家の悲運」

第六章「信長の推挙で惟任日向守へ」=「長篠の合戦/勝因は何か」「丹波攻めの開始」

第七章「丹波攻めでの挫折」=「統治が難しい丹波国/波多野秀治の裏切り」「光秀の病状と亀山築城/とまらない織田軍」

第八章「興福寺僧が見た光秀」=「混乱の大和国支配/荒廃する朝廷政治」「『戒和上昔今禄』/織田信忠大和国平定」「御乳人、御妻木殿、信長ルート」「取次として活躍する女性たち」「動き出した裁判/後手に回る興福寺」「御妻木殿からの情報/迅速に下された判決」「信長の裁判方針/『尊氏御判御直書等』」「光秀の家格/回復した自信と信頼」「光秀の口吻/織田政権の実態」

 

第三部「謀反人への道」

第九章「丹波制圧で期待に応える」=「荒木村重の乱/『信長公記』に見る八上城攻め」「水も漏らさぬ攻城戦/戦国SNSの活用」

第十章「領国統治レースの実態」=「飛躍の年/丹波の統治」「人材争奪戦/指出と軍法」「陣夫規定を考える」「重い夫役負担の実態」「反発する民衆/光秀軍法の位置づけ」「信長からの指示/領国統治レース」

第十一章「本能寺の変へ」=「御妻木殿の死/家中法度の背景」「不十分な行政組織/多忙を極める光秀」「信長の一族優遇策/本能寺の変」「人心掌握の誤算/天王山の戦い」「それぞれの道」

終章「明智光秀豊臣秀吉」=「天下を取りこぼした人物」「再び直面した身分の壁」「指出の光秀・検地の秀吉」