なぜ、古典を学ぶべきか。古文の授業の受け方も変わっていたかもしれない。
逆に言えば、先人たちの叡智をいつのまにか失っていた。
叡智に触れる営み。
平凡な頭脳を勉強に適した頭脳へと活性化させ、思考体系を広げてくれる。
発音には歴史がある。
ラテン語を学ぶメリットは、論理的思考の枠組みを習得できること。
ラテン語を通して、現代にまでつながる文化の源流に触れる
ラテン語を使っていたローマ帝国が崩壊しても、カトリック教会はラテン語を公用語としていた。つまり、キリスト教の話が、単なる宗教的な次元を超えて、言語と文化、宗教都市層までを網羅したものとして、西欧文化を紐解くために欠かせない手掛かり。
「否定」の概念は「夜に流れる水」から生まれた。
何も見えない夜に「何が見えた」と尋ねると「水だけが見えた」と答えると、これは「何も見えなかった」と認めている表現になる。
Lectio VIII カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい
神への信仰と国家への義務は次元が異なり、両方を守ることは矛盾ではない、ということ。また、物は、本来あるべきところに戻すべきだ、というたとえ。
「新約聖書―マタイ伝・二二」
イエスを敵視するパリサイ人が、イエスを罠にかけようとして、「カエサル(ローマ皇帝)に税金を納めてよいでしょうか」と尋ねました。すると、イエスは、「貨幣に彫ってある肖像は誰のものか」と問い返します。相手が「カエサルです」と答えると、「それではカエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と述べた。
Lectio IX たとえ神がいなくとも
神の存在を排除し、人間の純粋理性によって、人間や法、哲学、倫理を述べているも同然だからです。グローティウスはこの表現を通し、神の存否はともかく、自然法こそが有効である
Lectio XI 時間は最も優れた裁判官である
時間が解決してくれる。
Lectio XII すべての動物は性交後にゆううつになる
大きく期待した瞬間が過ぎ去った後に、ひとは自分の力ではどうにもできないもっと大きな何かを逃したような虚しさを感じる。
Lectio XIII あなたが元気なら、よかったです。私は元気です
→古代ローマ人のあいさつ→S.V.B.E.E.V.(Si vales, bene est, ego valeo.)
あなたが元気なら、それは宜しい、私も元気です。
S.P.D.
丁重にあいさつします。
Lectio XIV 今日は私へ、明日はあなたへ
主語に「死」を補うと「今日は私に、明日はあなたに死が訪れる」
Lectio XV 今日を楽しみなさい(Carpe diem)
Carpe diem, quam minimum credula postero.
(その日を摘め、明日をできる限り信じないで)
Lectio XVIII ローマ人の食事
古代ローマの庶民の食事 ―普段食べていたものや外食事情について― | 古代ローマライブラリー
Lectio XX 物事は、知っているものしか見えない
Lectio XXI 私は欲望する。ゆえに存在する。
デカルトは、人間は精神が存在の規準となり、感覚や情緒、欲望はすべて清新の支配下にあるとしていた。
スピノザは、精神と身体はお互いに支配を受けることなく、すべて自然の法則に従うものだとしていた。
満足とは、十分に何かをすること。
数を含むすべての数学的概念は人間が作り出した最高の仮想。この仮想が人間を苦しめている。
Lectio XXIII しかし、今日も明日も、またその次の日も、私は進んで行かねばならない
勉強の由来は、「心から望む何かに力を注ぐこと」
Lectio XXIV 真理に服従せよ
→真理を解くカギは宗教にある
Lectio XXV みな傷つけられ、最後は殺される
Lectio XXVI 愛しなさい、そしてあなたが望むことを行いなさい
そして、アウグスティヌスは続ける。
「沈黙するときは、愛のゆえに沈黙しなさい。
語るときは、愛のゆえに語りなさい。
罰するときは、愛のゆえに罰しなさい。
ゆるすときは、愛のゆえにゆるしなさい。
愛に根ざしなさい。
愛という根からは、善のほかは何も生まれないからです」
つまり、愛に導かれる人、愛を完全に生きる人は、神に導かれる。
Lectio XXVII これもまた過ぎゆく
今、感じている苦しみや絶望は永遠に続くように感じるが、いつしか必ず抜け出せるときが来る。
Lectio XXVIII 命ある限り、希望はある
目次
凡例
日本語版刊行に寄せて ── 叡知の貯蔵庫としてのラテン語
序文
Lectio I 胸に秘めた偉大なる幼稚さ
Magna puerilitas quae est in me
ラテン語はなぜ難しいのか?/レオナルド・ダ・ヴィンチもラテン語を猛勉強した/ヨーロッパの学生がラテン語を学ぶ理由/頭の中に「新しい本棚」を作る/勉強の動機は「不純」でいい/「偉大なる幼稚さ」を大切に
Lectio II 最初の授業は休講します
Prima schola alba est
学問とは「人間と世界を見つめる枠組み」を作る作業/ローマ人のシンプルな教育制度/ローマカトリック教会の公教育とは?/英語圏に修道会が運営する名門学校が多い理由/あなたの心の陽炎を見つめてください
Lectio III ラテン語の品格
De Elegantiis Linguae Latinae
「否定」の概念は“夜に流れる水”から生まれた/ラテン語はインド・ヨーロッパ語族に属している/古代の人々は「母」という概念をどう考えたか?/ピタゴラスはインドの思想に影響を受けていた/ラテン語の「丁寧さ」が地中海の平和を生んだ/言葉とは船である
Lectio IV 私たちは学校のためではなく、人生のために学ぶ
Non scholae sed vitae discimus
赤ちゃんに学ぶ「言語学習の本質」/ラテン語の発音からヨーロッパ社会を学ぶ/発音からすけて見える「ヨーロッパ人のプライド」/言葉は自分を理解する手段、そして世界を理解する枠組み/「真の知性人」とは?
Lectio V 長所と短所
Defectus et Meritum
長所と短所の「語源」から見えてくるもの/自分の短所と目をそらさずに向き合う/ラテン語の名句に学ぶ「捨てる勇気」/人間は何歳になっても迷う。だからこそ
Lectio VI ひとりひとりの“スムマ・クム・ラウデ”
Summa cum laude pro se quisque
奥深いラテン語の名詞/ラテン語を辞書で調べるときの注意点/真の教育とは、勉強したくなる動機を与えること/ラファエロの絵画と神秘主義/自分の中の「最優秀」を認識する
Lectio VII 私は勉強する労働者です
Ego sum operarius studens
ラテン語「エゴego」の役割/私たちは日々、「最善」を尽くしている/習慣の語源が教えてくれること/苦しみの中で幸せを見い出す方法/「勉強する労働者」は挫折を楽しむ
Lectio VIII カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい
Quae sunt Caesaris Caesari et quae sunt Dei Deo
イエスの使徒パウロとローマのかかわり/キリスト教がここまで普及した理由/キリスト教における「政治と宗教の分離」/中世における「宗教と信仰の価値」とは?
Lectio IX たとえ神がいなくとも
Etsi Deus non daretur
法学者グローティウスの主張/聖書は弟子たちによる“授業ノート”か/人が哲学や倫理を求めた理由
Lectio X 与えよ、さらば与えられん
Do ut des
「あなたが私に施したから、私もあなたに与えよう」/「相互主義」という国際ルールの起源/「自分さえよければいい」マッチョイズムの台頭/人生は、他者を思いやることで完成する
Lectio XI 時間は最も優れた裁判官である
Tempus est optimus iudex
時間にまつわるさまざまな言葉/長い時間をかけて辞典を作り、悟ったこと/古代ローマ人は「幸せ」をどう考えたか?
Lectio XII すべての動物は性交後にゆううつになる
Post coitum omne animal triste est
絶望の日々をどう乗り越えたか/ラテン語の名句を英単語と照らし合わせる/「期待した瞬間」が過ぎさると、人間は絶望する/「ゆううつ」を感じるところまで、上り詰める
Lectio XIII あなたが元気なら、よかったです。私は元気です
Si vales, bene est; ego valeo
古代ローマ人のあいさつ/手紙と時制のユニークなルール/郵便は軍事目的でも使用されていた/「あなたが安らかであってこそ、私も安心できる」/人生を好転させる、ちょっとした習慣
Lectio XIV 今日は私へ、明日はあなたへ
Hodie mihi, Cras tibi
死をくぐり抜けた人間は、どんな香りを放つのか?/古代ローマの葬儀/人間は、他者に残された記憶によって香りを放つ
Lectio XV 今日を楽しみなさい
Carpe diem
名句Carpe diem は農業に由来する言葉/今日を我慢し、節制するのは美徳なのか?/ローマ人たちも「過去」に縛られていた
Lectio XVI ローマ人の悪口
Improperia Romanorum
ラテン語の「洗練された悪口」/「神聖な」「呪われた」という2 つの意味が混在する言葉/「心の言葉」に耳を澄ませよう
Lectio XVII ローマ人の年齢
Aetates Romanorum
ヨーロッパ言語が「水平型言語」である理由/道徳的人間と非道徳的社会/イタリア人に受け継がれた「寛大な精神」/学びとは、自分だけの歩き方を学ぶこと
Lectio XVIII ローマ人の食事
Cibi Romanorum
「私を上に引っ張り上げる」ティラミス/古代ローマ人の一日の食事/肉や魚の面白い調理法/奴隷にも支給されていたワイン/宴がわかれば、ローマの文化がわかる/同性愛を禁止した合理的な理由
Lectio XIX ローマ人の遊び
Ludi Romanorum
ローマ時代のさまざまなゲーム/セネカが軽蔑した「円形闘技場の熱狂」/高度な技術力に支えられた公共浴場/勉強や仕事から意識的に遠ざかってみる
Lectio XX 物事は、知っているものしか見えない
Tantum videmus quantum scimus
ムッソリーニが標榜した「偉大なイタリア」/カエサルが暗殺された場所/自分が知っているものしか目に入らない
Lectio XXI 私は欲望する。ゆえに存在する。
Desidero ergo sum
スピノザとデカルトの違い/満足とは「十分に何かをする」こと/人間が作り出した最高の仮想が、人間を苦しめている
Lectio XXII 韓国人ですか?
Coreanus esne?
「国」という概念はいつから生まれたか?/「天才教授の怒り」忘れられないエピソード①/「韓国人ですか?」忘れられないエピソード②/「私たちはみな同じ人間」という真実
Lectio XXIII しかし、今日も明日も、またその次の日も、私は進んで行かねばならない
Verumtamen oportet me hodie et cras et sequenti die ambulare
sex の由来は数字の「6」だった/単語ひとつに思想が反映される/勉強の由来は「心から望む何かに力を注ぐこと」
Lectio XXIV 真理に服従せよ
Obedire Veritati!
世界の問題を「世俗の学問」の力で解決する/ボローニャ大学の果たした役割/大学は何を大切にしてきたのか?/「真理」とは何なのか?/真理を解くカギは「宗教」にある
Lectio XXV みな傷つけられ、最後は殺される
Vulnerant omnes, ultima necat
古代ローマでどのように医学が発展していったか?/心と体を傷つけるのは、他者ではなく、自分自身
Lectio XXVI 愛しなさい、そしてあなたが望むことを行いなさい
Dilige et fac quod vis
砂漠とは、神への信仰が深まる場所/タクラマカン砂漠の洗礼
Lectio XXVII これもまた過ぎゆく
Hoc quoque transibit
今日できることは明日に延ばそう/「朝、自分に微笑みかける」という課題の真意/うれしいことをしっかり嚙みしめる
Lectio XXVIII 命ある限り、希望はある
Dum vita est, spes est
今の人生を送るか? 完璧な世界で新たな人生を送るか?/希望の語源は「期待して望む」/死と直面して悟ったこと
感謝の言葉
“人生の本棚”に並ぶラテン語の授業を振り返って ── 学生からの手紙
監訳者あとがき