akon2.00βのよっぱらいの戯言

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偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性

 

懐疑主義者(アイロニスト)

キルケゴールニーチェボードレールプルーストハイデガーナボコフ

より公正で自由な人間共同体への欲求にとらわれている人々

マルクス、ミル、デューイ、ハーバーマスロールズ

 

リベラルな社会という考え方の中心にあるのは、行為ではなく言葉、強制ではなく説得が維持される限り、なんでもありだというこのとなのだ

 

『道徳原理』(定言命令、効用原理等)は制度、慣行、そして道徳・政治的な考慮のボキャブラリーといった領域全体に対する暗黙の指示と一体となっているかぎりでのみ、有意義になるのだという主張に、である。道徳原理とはこのような慣行を思い起こせるもの、短く言い換えたものであり、それを正当化するものではない。

 

道徳性を私たちのなかにある神的な部分の声だと考えることをやめ、その代わりに共同体のメンバー、共通の言語の話し手としての私たち自身の声であると考えることができる場合にのみ、私たちは『道徳性』という考えを維持することができる

 

道徳性を私たちのなかにある神的な部分の声だと考えることをやめ、その代わりに共同体のメンバー、共通の言語の話し手としての私たち自身の声であると考えることができる場合にのみ、私たちは『道徳性』という考えを維持することができる

 

 

リベラルな社会とは、その理想が、強制によってではなく説得によって、革命によってではなく改良によって達成可能になる、そして現行の言語慣行やその他の慣行と新たな慣行への示唆との自由で開かれた出会いによって達成可能になる、そういう社会のことなのだ。

 

 

 

リベラルなユートピアの市民とは、道徳上の熟考をする際の自分の言語が、したがって自分の良心が、さらには自分の共同体が偶然性を帯びているという感覚をもつ人々なのである。

 

連帯とは伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならば、さほど重要でないと次第に考えていく能力、私たちとはかなり違った人々を『われわれ』の範囲のなかに包含されるものと考えていく能力である。

 

人間性そのもの』との同一化としての人間の連帯と、民主的な諸国家に住まう者たちにこの数世紀を通じてしだいに浸透してきた自己懐疑としての人間の連帯とを区別したい。それは、他者の苦痛や辱めを察知する私たち自身の感性への疑い、現在の制度的な編成がそうした苦痛や辱めに適切に対応し得ているかどうかへの疑いであり、それ以外の可能なオルタナティブへの関心である。私には『人間性そのもの』との同一化は不可能であるように思える。それは哲学者が発明したものであり、人間が神と一体になろうという観念を世俗化しようとする危険な試みに過ぎない。……私自身の用語で言い換えれば、それは、あなたと私は同一の終極のボキャブラリーを共有しているかどうかという問と、あなたは苦痛をこうむっているのかどうかという問とを区別する能力である。こうした問を区別することによって、公共的な問と私的な問、苦痛についての問と(個々の)人間の生の核心についての問を区別することが可能になり、リベラルの領域をアイロニストの領域から区別することが可能になる。そうした区別をおこなうことによって初めて、一人の人間が同時にリベラリストでありかつアイロニストであることが可能になるのである。

 

 

世界がそこに在るという主張と、真理がそこに在るという主張とは区別される必要がある。世界がそこに在る、つまり世界は私たちの 創造物ではないと述べることは、常識的にいって、時空間内にある事物のほとんどが、人間の心の状態を含まない諸原因の結果だと述べることである。真理がそこに在るのではないと述べることは、文は人間の言語の要素であるということ、そして人間の言語は人間が創造したものであるということを述べるにすぎない。
 真理がそこに在る――真理が人間の心から独立して存在する――ということはありえない。なぜなら、文がそのような形で存在し、そこに在るということはありえないからである。世界はそこに在る、しかし世界の記述はそこにはない。世界の記述だけが、真か偽になることができる。世界そのものだけでは――つまり人間存在が記述行為によって補助しなければ――真や偽になりえないのである。

 

世界は話さない。ただ私たちのみが話す。私たちがいったんある言語を自分自身にプログラムしてしまえば、世界が原因となって私たちが何らかの信念をいだくことが可能になる。しかしながら、世界が私たちに特定の言語を話すことを提案することなどありえない。自分以外の人間存在のみが、そうしたことをできる。だが、私たちがどの言語ゲームをすべきかについて世界が教えることはないと理解したとしても、それゆえに言語ゲームの決定が恣意的であるとか、言語ゲームが私たちの内面深くにある何かの表現だ、と述べるべきではない。ここから引出せる教訓は、ボキャブラリーを選択する上での客観的な尺度を主観的な尺度に、つまり理性を意志や感情に取り換えるべきだ、ということではない。むしろ、尺度とか(『恣意的』な選択も含んだ)選択といった考えは、ある言語ゲームから他の言語ゲームへの変換が問題となる場合、もはや適切な考えではないというのが教訓なのである。ロマン主義の詩のイディオムや、社会主義の政治や、ガリレオの力学を受け容れることをヨーロッパが決めたのではなかった。この種の変換は、議論の結果でもなければ意志の行使でもなかった。むしろ、ヨーロッパでは次第に或る言葉を使用する習慣が失われ、そして次第に他の言葉を使用する習慣が獲得されたのである。

 

 

ボキャブラリーを変えるための再記述の方法

来るべき世代に受け容れられることで、その結果(たとえば新しい科学器機や新しい社会制度の採用といった)適切で新たな言語外行動の形式を求める探求を促するような言語の行動パターンを創造するまで新しいやり方で事物を片っ端から再記述してゆく、というものである。この種の哲学は、概念を次から次へと分析したり、テーゼを次から次へと検証したりというように、一つひとつ進んでゆくものではない。むしろ、全体論的にプラグマティックになされるのである。『このような仕方で考えてみてごらん』あるいはもっと詳しく『次のように新しくて多分興味深い問に取り換えることで、明らかに不毛な伝統的問を無視してごらん』といった示唆が語られる。

 

 

言語は媒体ではない

媒体によって何を意味しているのかということを、人間の置かれている状況に関する伝統的な描写においては、人間存在がたんなる信念や欲求の網の目ではなく、むしろそのような信念や欲求をもつ存在として描かれていたことに注目することで、説明できる。伝統的な見方によれば、このような信念や欲求をみつめ、そのなかで選択をし、使用し、それを手段として自己表現をする、といったことが自己の中心にすえられている。…かくして私たちがもっているのは、この信念と欲求がなす網の目の、一方の側に自己の本質的な核心があり、もう一方の側に実在があるという描写なのである

 

 

ディヴィドソンの言語論

還元主義と拡張主義の両方をさけている点で、ディヴィドソンはヴィトゲンシュタインに似ている。両哲学者とも代置するボキャブラリ-を、ジグソーパズルの小片というより、代わりに取りだした道具のようなものとして論じているのである。そのようなボキャブラリ-をパズルのピ-スとして論ずる場合、どんなボキャブラリーでも他のボキャブラリーに取り替えたり還元したりすることが可能だとか、あるいは、統合された一つの巨大なスーパーボキャブラリーのなかに他のボキャブラリーすべてと一緒に統合することが可能だ、と想定していることになる。

 

 

ボキャブラリ-と道具をアナロジーで結びつける、こうしたヴィトゲンシュタイン的なやり方には、-つの明白な欠点がある。職人は仕事に使う道具を取り出したりつくりだしたりする前に、自分がする必要がある仕事が何であるかを知っているのがふつうである。それとは対照的に、ガリレオ、イュイツ、またはヘ-ゲルといった人(私が用いる広い意味――つまり『事柄を一新する人』という意味――での『詩人』)は、自分がうまくやろうとすることを表す言語を開発する前に、そもそも自分のやりたいと思っていることが正確には何なのか、はっきりさせることができないのがふつうなのだ。彼の新しいボキャブラリーによって初めて、そのこと自体の目的が定式化させられるのである。

 

伝統的な理解では、『私たちが現在使用している言語は正しい言語なのか――それは表現や再現の媒体という役割に適したものなのか』『私たちの言語は、透明なあるいは不透明な媒体なのか』といった問には意味があることが当然視されていた。こうした問は、言語が言語以外のものに立ち向かうような関係、たとえば『世界とぴったりと合う』とか『自己の真の本性に忠実な』といった関係が存在すると想定している。この想定と一緒になっているのが、『私たちの言語』――私たちが現在話している言語、20世紀に住む教養ある人びとに使用可能なボキャブラリ――は何らかの方法によって、一つの個体つまり他の二つの個体――自己と実在――に対して確固たる関係を結ぶ第三者になっているのだ、という想定なのである。以上二つの想定とも、『意味』と呼ばれる言語以外のものが存在し、言語の役割はそれを表現することだという考えと、『事実』と呼ばれる言語以外のものが存在し、言語の役割はそれを再現することだという考えを、いったん私たちが受け容れたなら、まったくもって自然な想定なのだ。この二つの考えとも、媒体としての言語という考え方を奉っているのである

 

ローティの問の架空性

自己と実在のあいだにある媒体は、両者を結んでいるのか、それとも離したままにしているのか

 

言語に関しては、それが媒介するものを結んでいるか離しているかというように問うこと自体が、架空の問に他ならない

この媒体は、主として表現の――つまり自己の内奥にある何かを分節化する――媒体とみなされるべきなのか。それとも再現の――つまり自己にその外にある何かを示す――媒体とみなされるべきなのか。

言語が媒体であるという考えを、主体と客体との間にある何かしら道具のようなもの

 

出来事の再記述

言語の歴史を、そして以上のようなわけで、芸術、科学、そして道徳感覚の歴史をメタファーの歴史とみなすということは、人間の心や言語が、《神》《自然》によって計画された目的にますますうまく適合してゆくという(たとえば、意味をさらにもっと表現してゆくとか、事実をさらにもっと再現してゆくという)、描き方をやめることである。

 

 

 

私たちは、メアリー・ヘッセに倣って、科学革命を自然のうちにある本有的特性についての洞察としてではなく、自然に関する『メタファーを駆使した再記述』として考察しなければならない。さらには、現代の物理・生物科学が提供する実在の再記述は、現代の文化批評が提供する歴史の再記述と比べて、何らかの形で『事物そのもの』により接近しているのであり、『心に依存する』ことがより少ないのだ、と考えたくなる誘惑に対して、抵抗しなければならないのだ。

 

再現としての言語という考えを棄て去り、言語の論じ方において徹底的にヴィドゲンシュタイン的になれば、世界を脱―神聖化することになる。こうすることによって初めて、私が前に提示した議論――真理は文の属性であり、文はその存在をボキャブラリーに負っており、そして、ボキャブラリーは人間存在によってつくられているのだから、真理もまた人間存在によってつくられているのだという議論――を完全に受け容れることができるのだ。

 

 

自己の偶然性

世界と自己の両者とも、私たちのうえに力――たとえば、私たちを死に到らせる力――を及ぼしている。無言の絶望や激しい精神的な苦痛は、私たちが自分自身を消し去ってしまう原因ともなる。だが、この種の力は、私たちがその言語を採用し、次にその言語を変容し、その結果私たちがそのしかるべき力と一体化し、私たち自身のより強力な自己の下にそれを包摂することによって、私たちのものとすることができる種類の力ではない。後者の戦略は、他の人格――たとえば、良心、神々、あるいは詩の先人――に対処する場合にのみ有効である。なぜなら世界、盲目の力、そして剥き出しの苦痛に対する私たちの関係は、私たちが人格を相手にして結ぶ種類の関係とは違うからだ。人間ではないものや言表不可能なものに直面したとき、私たちには専有や変換という手段によって偶然性や苦痛を克服する能力などなく、ただ偶然性と苦痛を承認する能力のみがあるにすぎない。

 

https://1000ya.isis.ne.jp/1350.html

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