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太平記の可能性

太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫)
太平記は巻22が欠落している。焚書されたといったほうがよい。太平記読みとは、太平記講釈ともいう、太平記を朗読し,講釈する人をさす。つまり、焚書されても口伝されていれば内容がわかるのかもと考えた。ところが、太平記読みの種本(テキスト)は太平記評判秘伝理尽鈔(通称、理尽鈔)であり、江戸時代に出版されたものであったので、期待を裏切られた。なお、水戸藩大日本史編纂のためにまとめた参考太平記では、「論ずるに足りず」としている。しかし、理尽鈔には奥書というものがあり、これは桃山時代日蓮宗本国寺の僧陽翁が、諸国の修行中に肥前唐津において、名和長年の子孫である名和正三に会い、名和家に伝わる秘伝を伝授されたらしい。ということで、期待しながら読んだけど、やはり、巻22の内容は伝承されていないようだ。

さて、本文をまとめる。
正成は天皇の臣ではなく、土豪という民であったのに、夢告という強引な形で、二人は出会っている。

源平交代の物語は平家物語によって当時の武士たちに共有されていた。このことによって、足利が反北条の号令を発すると全国の武士たちがやってきた。つまり、「いざ鎌倉」は平家物語が流布されていなければ成立しなかったのである。そして、「平家」語りの正本は、惣検校が管理し、弟子に伝授され、全国に流布されていった。メディアのない時代の思想統制であった。このため、正本が足利家に進上されたということは、支配権が足利家にゆだねられたことを意味する。

太平記室町幕府の草創を語る正史として整備、編纂された。古代の天皇神話が語り部によって伝承されたように、源氏政権の神話的起源が語り部によって伝承された。

伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹である。

源平交代の物語にのることは、武家政権の自己正当化のために必要であった。信長が桓武平氏の後裔を自称したのは、清和源氏である足利に対しての源平交代の物語であり、家康も源平交代を演じるために清和源氏の新田を称した。

楠正成が最高の人気の演目であったので、客の入りが悪くなると、門口に「今日より正成出づ」の張り紙が出る。

水戸光圀の『大日本史』の史観
水戸学が南朝を正統とし、光圀の片腕として知られる安積澹泊の書簡によると、澹泊がはじめて史館に入った時、光厳天皇から後円融天皇に至る北朝五主の伝記は、列伝に降ろされていた。(中略)『大日本史』が採用した紀伝体と言う形式は、皇帝在位中の年代記である「本紀」と、臣下の伝記である「列伝」から構成されていた。つまり光圀が立てた当初の構想は、時の天皇を「臣下」の子孫と見なしていたことになる。安積はこの点を懸念し、北朝五主の伝記を後小松天皇の冒頭に移した。しかし、それにもかかわらず南朝を正統とする『大日本史』の見解は、「時勢に不可なるところあり」、あるいは「当主のために忌むべきものあり」などとして(藤田幽谷「校正局諸学士に与ふるの書」)、永らく朝廷への献上が実現せず、『大日本史』の書名についても、その勅許を得ることができなかった(日本思想体系『水戸学』)。

藤田幽谷が「易姓革命のないわが国では、史書に国号を冠するのがそもそも誤りである」

南朝を正統の王朝と見なすとともに、その滅亡によって、一つの王朝の歴史が完結したと考えられていた

武家政権(いわば「後日本」)の正統なる継承者である徳川家が、「神武天皇に始まって南朝へと継続した王朝の、建国から滅亡にいたる歴史」(これこそ『大日本史』)を編集しようとしたものであり、そう考えたとき、室町時代以降の北朝は、武家政権に擁立された新王朝であって、前の王朝の正統なる後継者とはみなされない。それが南朝正統論の本来の意味であった。

南北朝の争乱を権謀によって勝利した足利家はほろび、最終的に志を得たのは、逆臣足利ではなく忠臣新田の子孫である徳川である。

明治政府が正成を奉祀し、湊川神社を建てたのは明治維新建武の中興の延長線に位置づけ、正成の忠烈を維新の元勲にかさねあわせる歴史的アナロジである。