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檀林皇后私譜

檀林皇后私譜 (上) (中公文庫)
檀林皇后(橘嘉智子)は嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫。
檀林の時代、天皇の妃であるより、天皇の母である方が皇后になりやすかった。
源平藤橘といわれるが、当時は源平なかった。藤原不比等とその妻三千代(橘の姓を与えられる)との子孫の時代であった。

橘奈良麻呂の乱
孝謙天皇藤原南家仲麻呂(恵美押勝)を退けようとして橘奈良麻呂仲麻呂の返り討ちに合う

恵美押勝の乱
橘奈良麻呂を追い落とした藤原仲麻呂は道真に追い落とされる

式家種継暗殺
平城天皇の父桓武天皇は、45歳で即位し、これは当時としては老年で、桓武天皇崩御した場合に子安殿親王(平城天皇)が幼帝として即位する事態を回避するため、即位した翌日に同母弟の早良親王を皇太子とした。
→なぜ、幼帝ではいけなかったのか
このため、早良の没後に安殿が皇位を継げるように、皇太子にも関わらず早良親王は妃を迎えたり子をなさなかった可能性がある。しかし、早良親王藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処せられた。これを受け、安殿親王を皇太子とし、桓武天皇崩御後、安殿親王平城天皇として即位した。
→なぜ、藤原種継暗殺が起きたのか

薬子の乱
嵯峨天皇の兄平城天皇には高岳・阿保の両親王がいたが、父桓武天皇の意向によって、
平城天皇の即位に伴って嵯峨天皇は皇太弟に立てられる。
平城天皇は体調不良???によって嵯峨天皇に譲位。
早良親王伊予親王の怨霊を利用されて
桓武天皇の意向によって皇太弟となった事情から、
嵯峨天皇平城天皇の子で甥にあたる高岳親王を皇太子とした。
譲位した平城天皇は復位を試みて、種継の子薬子が乱を起こす。
この結果、高岳親王は廃される。
→なぜ、連座した?
嵯峨天皇は実子を皇太子に立てず、異母弟の大伴親王(のちの淳和天皇)を皇太弟に立てた。
平城・嵯峨両天皇を除けば、大伴親王の子恒世親王桓武天皇嫡系にもっとも近い皇族(臣下を母とする平城天皇高岳親王嵯峨天皇の正良親王(仁明天皇)よりも近い)であったが、父大伴親王を飛ばして皇嗣に立てる訳には行かず、嫡子ではない大伴親王への皇位継承の可能性が浮上した。

一方、大伴親王(淳和天皇)は暗殺を恐れ、桓武天皇崩御の際に臣籍降下を願い出たが、皇太子(平城天皇)に慰留された。
大伴親王の母(藤原旅子)は桓武天皇の皇后(藤原乙牟漏)ではなかったが、大伴親王は生母が皇后と同じ藤原式家の出身でかつ異母姉妹にあたる皇后の高志内親王を妃として恒世親王を儲けていた。
大伴親王は平城・嵯峨両天皇が自己の異母姉妹(桓武天皇内親王)との間に男子を儲けた場合に自分や恒世親王他戸親王早良親王のように皇位継承争いに巻き込まれることを危惧して上表を出したと考えられているが、桓武天皇嫡系に准じた恒世親王皇位継承権の喪失につながるこの上表は受け入れられるところとならなかった。

だが、淳和天皇は即位後恒世親王ではなく、嵯峨天皇の嫡子であるとして正良親王を皇太子に擁立した(高岳親王薬子の変廃太子)。在位中に恒世親王が病死したため皇位は正良親王(仁明天皇)に継承されたが、仁明天皇は淳和上皇と正子内親王(嵯峨天皇の皇女)の間に生まれた恒貞親王を皇太子に擁立した。淳和上皇は有力貴族の後ろ盾のいない息子恒貞親王仁明天皇の皇太子になったことに不安を抱いていたとされ、その不安は承和の変として現実のものとなった。

===ここから
承和の変
橘逸勢(檀林のいとこ)が恒貞親王を奉じ、檀林の孫文天皇皇位を争う

823年、嵯峨天皇は譲位し、弟の淳和天皇が即位した。
833年、淳和天皇は譲位し、嵯峨上皇の皇子の仁明天皇が即位した。
仁明天皇嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘皇后橘嘉智子(檀林皇后)。
正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。
仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)が立てられた。


この間に藤原北家藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭し始めていた。良房の妹順子が仁明天皇中宮となり、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれた。良房は道康親王皇位継承を望んだ。道康親王を皇太子に擁立する動きがあることに不安を感じた恒貞親王と父親の淳和上皇は、しばしば皇太子辞退を奏請するが、その都度、嵯峨上皇に慰留されていた。

840年、淳和上皇崩御
842年、嵯峨上皇も重い病に伏した。これに危機感を持ったのが皇太子に仕える春宮坊帯刀舎人伴健岑とその盟友但馬権守橘逸勢である。彼らは皇太子の身に危険が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談した。阿保親王はこれに与せずに、逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后に健岑らの策謀を密書にて上告した。皇太后は事の重大さに驚き中納言良房に相談した。当然ながら良房は仁明天皇へと上告した。

7月15日、嵯峨上皇崩御。その2日後の17日、仁明天皇伴健岑橘逸勢、その一味とみなされるものを逮捕し、六衛府に命じて京の警備を厳戒させた。皇太子は直ちに辞表を天皇に奉ったが、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留される。しかし、23日になり政局は大きく変わり、左近衛少将藤原良相(良房の弟)が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲。出仕していた大納言藤原愛発、中納言藤原吉野、参議文室秋津を捕らえた。仁明天皇は詔を発して伴健岑橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるために皇太子を廃した。藤原愛発は京外追放、藤原吉野は大宰員外帥、文室秋津は出雲員外守にそれぞれ左遷、伴健岑隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(護送途中、遠江国板築にて没)となった。また、春澄善縄ら恒貞親王に仕える東宮職春宮坊の役人が多数処分を受けた。

事件後、藤原良房は大納言に昇進し、仁明天皇の第一皇子道康親王(文徳天皇)が皇太子に立てられた。

事件は自らの息子に皇位を継がせたい帝の意思と、それを利用して甥である道康を立太子させたい藤原良房の陰謀があったと言われている。

さらに、名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させたとされている。承和の変の意味は、桓武天皇の遺志に遠因をもつ、嵯峨、淳和による兄弟王朝の迭立を解消し、嵯峨-仁明-文徳の直系王統を成立させたという点も挙げられる。また良房は、この事件を機にその権力を確立し昇進を重ね、遂に人臣最初の摂政太政大臣までのぼり、藤原氏繁栄の基礎を築いた。

文徳天皇
仁明天皇の第一皇子。母は藤原冬嗣の娘皇太后順子。
承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると、仁明天皇の譲位により践祚
藤原良房の娘明子が、第四皇子(惟仁親王、のちの清和天皇)を産んだ。
惟仁親王は生後8か月で3人の兄を押しのけ立太子した。
天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子・惟喬親王を鍾愛し期待したが、
良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。
惟喬親王立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、
惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣源信の諫言で取り止めとなった。
この状況下で、突然の病で急死する。通説では死因は脳卒中といわれているが、
あまりの病状の急変から藤原良房による暗殺説もある。