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ジェンダー・トラブル

 

 

 

 

 ひとは女に生まれない、女になる。

シモーヌ・ド・ボーボワール

 

トラブルは避けえないから、いかにうまくトラブルを起こすか、いかにうまくトラブルの状態になるか。

 

第1章 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体

 

1.1フェミニズムの主体としての「女」
セックスとジェンダーの区別は、<生物学は宿命だ>という公式を論破するために持ちだされたものであるが、それはジェンダーの方は文化の構築物だが、セックスの方は生物学的で人為操作が不可能だという理解を、助長するものである。

もしもジェンダーが性別化された身体が身にまとう文化的意味だとすれば、ジェンダーはある一つの道筋でセックスから導きだされるものとは言えなくなる。つまり、たとえセックスが形態においても構造においても疑問の余地のない二元体のように見えたとしても、ジェンダーもこの二つのままでなくてはならないと考える理由は何もない。

セックスは、つねにすでにジェンダーだ。セックスという「自然な事実」のように見えているものは、じつはそれとはべつの政治的、社会的な利害に寄与するために、さまざまな科学的言説によって言説上、作りあげたものにすぎない。すなわち、セックスとはジェンダーと同様に、社会的に構築されたもの。

セックスとジェンダーの区別は、結局、区別などではない。セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーであり、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味。

 

ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前=言説的なもの」――つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立的な表面―-として生産され、確立されていくのである。

 

セックスという生物学的性差、すなわち身体のうえに、ジェンダーという文化が書き込まれるのではない。セックスというカテゴリーそのものが、「政治的、社会的な利害」に沿うものとして、言説的に構築されたものなのだ。あたかもそれが「自然の事実」であるかのように。そしてジェンダーという「言説/文化の手段」によって、セックスそのものが生産され、確立されていくのだ。

 

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは『第二の性』のなかで、「ひとは女に生まれない、女になる」と語った。ボーヴォワールにとって、ジェンダーは「ひと」が身に帯びるものであり、つまり「構築された」ものである。だがこの公式では「女」になる「ひと」が前提とされている。すなわちジェンダー化される以前の、前=言説的な「ひと」が想定されている。社会的可視性や社会的意味をひとに与えるさまざまな役割や機能のまえに、行為体(エイジェンシー)が存在論的に存在していると主張する相も変らぬ考え方で、社会学は「ひと」という概念を理解しようとしてきた。

哲学的説明では、「ひとのアイデンティティ」を考察する際、たいてい、「そのひとのどのような内的特質が、時を超えて、そのひとの連続性や自己同一性を確立しているのか」という問題に陥る。だが、バトラーが提示する問題とは以下のようなものである。つまり、「ジェンダー形成やジェンダー区分を規定していく実践は、どの程度アイデンティティ――主体の内的首尾一貫性……を構築するものなのか。どの程度『アイデンティティ』は、経験を記述した特質ではなく、規範的な理念なのか」というものである。

 

 

連続せず首尾一貫していない奇妙な代物は、連続性と首尾一貫性という既存の規範との関係によってのみ思考可能となるので、こういった奇妙な代物をつねに禁じると同時に生みだしているのは、まさに、生物学的なセックスと、文化的に構築されるジェンダーと、セックスとジェンダー双方の「表出」つまり「結果」として性的実践をとおして表出される性的欲望、この三者のあいだに因果関係や表出関係を打ちたてようとする法なのである。

 

「法」とは、「ジェンダーアイデンティティを理解可能なものにしている文化のマトリクス」のことである。このマトリクスは、セックスと、ジェンダーと、性的欲望および性的実践のあいだに、首尾一貫した連続した関係を設定し、維持していこうとするのである。ところが、このマトリクスは「理解可能性の規範」であるがゆえに、そこにおいては、ある種の「アイデンティティ」は「存在する」ことができない――つまり、ジェンダーがセックスの『当然の帰結』でないようなアイデンティティや、欲望の実践がセックスやジェンダーの『当然の帰結』でないようなアイデンティティは存在できない。

事実、ある種の「ジェンダーアイデンティティ」は文化の理解可能性の基準に合致しないがゆえに、その文化のなかでは、「発達上の失敗」とか、「論理的不可能性」としてしか現れない。だが、そのようなマトリクスにおいては「失敗」とか「論理的不可能性」とされている、ある種の「ジェンダーアイデンティティ」が「つねに存在し、増殖している」ことこそが、マトリクスの領域に限界があることや、それが規制目的をもっていることをあばき、その結果、そのマトリクスの枠のなかでそれに対抗し、それを攪乱させるような、ジェンダー混乱の多様なマトリクスを切り拓く批判の機会を与えるものとなるのである。

 

ジェンダーアイデンティティを理解可能なものにしている文化のマトリクスにおいて、ひとが「理解可能」となるのは、セックスと、ジェンダーと、セクシュアリティのあいだに首尾一貫性がみられるときである。すなわちセックスがなんらかの意味でジェンダー(自己の精神的および/または文化的な呼称)と欲望(異性愛の欲望、つまり欲望の対象であるもう一つのジェンダーとの対立的な関係をとおしてそれ自身を差異化するもの)を必然的にともなうときである。男女それぞれのジェンダーの内的一貫性や統一性には、安定した対立な異性愛が必要であるということになる。「欲望の異性愛化」は、「オス」や「メス」(セックスのこと)の表出と考えられている「男らしさ」や「女らしさ」という明確に区別された非対称的な対立を生産するよう要請し、その対立を制定するものである。それゆえ、セックスとジェンダーセクシュアリティとの関係だと考えられているジェンダーアイデンティティは、強制的異性愛[4]とみなしうる規則的な実践の結果である。すなわち、「男女二元的な身体のあいだのエロスの交換を規範として強制する性の体制」である「異性愛のマトリクス」こそが、ジェンダーに関する現在の覇権的な規範を構築しているのである。

 

構造主義の言説は、<法>を単数とみなす傾向がある。『親族の基本構造』によれば、親族関係を強化すると同時に差異化する役目をする交換の対象は女であり、それは結婚という制度をつうじて、父系的な氏族から別の氏族へと、贈与として与えられる。花嫁、贈与、交換の対象は、交換通路を開く『記号と価値』となるものだが、これには交易を容易にする機能的な目的のほかに、この行為をつうじて差異化される各氏族の内的結束――つまり各氏族の集合的アイデンティティ――を強めるという象徴的、儀礼的な目的もある。すなわち花嫁は、男によって構成される集団をつなぐ関係項として機能するのである。花嫁はアイデンティティをもつことはなく、まさにアイデンティティ不在の場所となることによって、男のアイデンティティを反映する。

男と、男同士を差異化させる女とのあいだの『差異』においては、ヘーゲル的な弁証法は機能しない。つまり社会的な交換がなされるこの差異化の瞬間は、あくまで男たちのあいだに社会的結束をもたらすものであり、男たちのあいだにのみ種族的結束と個別的分化を同時にもたらす、ヘーゲル的な統一なのである。「女の交換」は、結局は「男同士の絆」に関わるものであるにもかかわらず、「異性愛的な女の交換と配分をとおしてのみ形成される男同士の関係」を結束させるものである。そのような父系列の氏族関係の基盤にあるのは、抑圧されているセクシュアリティ、「つまりホモソーシャルな欲望」である。

近親姦タブーは「男同士を結束させる手段」として、族外婚の異性愛を生産する。したがって、族外婚の異性愛とは規制を受けていない自然なセクシュアリティを禁止することによってのみ得られる非近親姦的な異性愛という、人工物である。

あらゆる文化はそれ自身を再生産しようとする。そしてそのためには個々の親族集団の社会的アイデンティティは保持されなければならないので、族外婚が制定され、またその前提として族外婚の異性愛が制定される。

 

こうして近親姦タブーによる「いくつかの異性愛の結合の禁止は、非異性愛の結合に対するタブー」を生みだす。これは近親姦の欲望を禁じる法であると同時に、強制的な同一化のメカニズムによってある種のジェンダーの主体性(異性愛者)を構築していく法制的な法でもある。

 

 他のどれにもまして近親姦タブーが、自我にとっては愛の対象の喪失の始まりであり、そしてタブーとされているこの欲望対象を内面化することによって自我がその喪失から立ち直ると理解されるなら、失った愛を内面化するこのプロセスは、ジェンダー形成の適切な要件となるだろう。異性愛の結合が禁止される場合、否定されるのは、欲望の対象だけで、欲望の様態ではない。つまり、欲望を反対のセックスのべつの対象に屈折する必要はない。だが同性愛の結合が禁止される場合には、欲望と対象の両方を断念することが求められ、それによってメランコリーの内面化戦略がとられることになる。こうして『若者は、父に同一化することによって、父をわがものとしていくのである』。

 

 

「正常な自我」を構築するための基本構造をなすとされている近親姦の禁止と、それに先立つ同性愛の禁止によって、「異性愛」が「自然な事実」というカテゴリーに位置づけられ、<字義どおり化>される。あたかも同性愛の喪失など、あらかじめ経験しなかったかのように忘却されるのである。事実、「メランコリックな異性愛の男は、けっしてべつの男を愛したことなどなく、彼は男であり、それを証明する経験的事実をいくらでも示すことができる」ということになる。

 

 

 

フーコーは、「権力の法システムはまず主体を生産し、のちにそれを表象する」と指摘した。権力を法制的な概念から見れば、「そもそも偶発的で撤回可能な選択によって政治構造にかかわっているにすぎない個人に対して、制限や禁止や規則や管理、なかんずく『保護』さえも与えることによって、その個人の政治的な生き方を規定していく」のである。このような構造で規定される主体は、構造に隷属することによって、構造が要求する事柄に見合うように形成され、定義され、再生産されていく。

この分析が正しければ、女を、フェミニズムの『主体』として表象しようとする言語や政治の法組織は、表象の政治の既存の一形態を言説で組み立てたもの、その結果にすぎないということになる。そうなるとフェミニズムの主体は、解放を促すはずの、まさにその政治システムによって、言説の面から構築されていることになる。

 

フェミニズムは、女を適切に表象する言語をつくりだし、そして「主体」としての女を解放することを、その目的に掲げてきた。ところが、「フェミニズムの『主体』として表象しようとする言語」が、「解放を促すはずの、まさにその政治システムによって」構築されているとなれば、フェミニズムの目標は瓦解する。それゆえ「主体」の問題は、とりわけフェミニズムの政治にとっては、きわめて重要なものなのだ。「法の権力は、単に表象/代表しているにすぎないと言っているものを、じつは不可避的に『生産している』のである」。このような権力の二重の機能――法制機能(禁止と規制)と産出機能(偶然の生産)――に注意を払わなければならない、

フーコーによる「法の第三の機能」、「法は、通路を与えるか、あるいは抑圧しているにすぎないと主張している現象を、じつは生産している系譜を隠すために、第三の機能をおこなう」。この法の配置が、心的事実をその出発点とみなすような因果関係で語られる物語の論理的一貫性として、それ自身を位置づけ、それによって、さらに根本的な系譜をたどる可能性をあらかじめ封じてしまい、セクシュアリティや権力関係の文化起源を遡ろうとする試みを締め出すという機能のことである。すなわち、これまでみてきたように、セックスや異性愛のような「自然な事実」と考えられているものは、法の結果にすぎないにもかかわらず、法の「まえ」に存在する「起源」として位置づけられるということである。したがって、「フーコーの系譜学的な研究があばいているのは、『原因』のようにみえるものが、じつは『結果』である」と言うことが可能となる。

 

異性愛のマトリクスを攪乱する地点として、法の「まえ」や「あと」をもちだす戦略は、したがって、棄却されることになる。法の「まえ」や「あと」というのは、「言説によってパフォーマティヴに設定される時間の様態」であって、そのような法の「そと」や「まえ」や「あと」のセクシュアリティにアクセスすることは、そもそも不可能である。そのように、「攪乱や不安定化や置換のためには、セックスにまつわる支配権力による禁止を何とか免れるセクシュアリティが必要だ」という考え自体が、法によってパフォーマティヴに構築されたものである。

 

もしもセクシュアリティが、既存の権力の内部で文化的に構築されるものならば、基準的なセクシュアリティを権力の「まえ」や「そと」や「むこう」に措定することは、文化的に不可能であり、政治的には実践できない夢であり、また権力関係の内部でセクシュアリティアイデンティティの攪乱の可能性を再考していこうとする現時点での具体的な課題を遅延させるものである。

 

法の強化ではなく、「法の置換となるように法を反復していく」可能性に導かれるような攪乱を起こす戦略を提示する。

 

原記号界(セミオティック)についてのクリステヴァの言語理論は、一見してラカンの前提に切り込み、その限界をあばき、言語の内部で父の法を攪乱する地点として、とくに女の位置を打ちだそうとしているようにみえる。

ラカンによれば、父の法である「象徴界」は、言語による意味づけのすべてを構造化するものであり、したがって、「文化そのものを全般的に組織化する原理」でもある。そして父の法は、「母の身体への幼児の根源的な依存をふくむ一時的なリビドー欲動を抑圧することによって、有意味な言語、すなわち有意味な経験の可能性を作りだす。ゆえに『象徴界』が可能となるのは、母の身体とのあいだに結ばれていた一時的な関係を断念することによってである」。このように、母の身体との一時的な関係を抑圧することが文化の意味づけに必要なものだとみなすラカンの物語に対して、クリステヴァは挑戦する。クリステヴァの主張によれば、「『原記号界』は、そのような一時的な母の身体に起因している言語領域であり、その領域は、ラカンの基本的前提をくつがえすだけでなく、『象徴界』の内部に攪乱を起こしつづける源ともなる」のである。

 

 

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「ひとは女に生まれない、女になる」は意味をなさない。なぜなら、もしもひとがずっと女でなかったなら、どうやって女になることができるのかという疑問が生まれるからである。いわば「つねにすでにジェンダー化されていない人間など、これまで存在して」こなかったのである。男と女のどちらのジェンダーにも合致しない身体形態は、「人間のそとにあるもの――非人間的でおぞましきもの(アブジェクト)の領域を構築するもの――であり、それと区別して人間が構築される」のである。

 

 

 ウィティッグの議論によれば、女は、男との二元的で対立的な関係を安定化し、強化する項目として存在しているにすぎない。彼女によれば、このような関係こそ異性愛なのである、彼女の主張では、異性愛を否定するレズビアンは、もはや対立的な関係で定義できる者ではない。……レズビアンは女でもなければ、男でもない。だがさらに、レズビアンにはセックスもない。なぜならレズビアンは、セックスのカテゴリーを超え

ているからである。

 

ウィティッグにとって、女というカテゴリーは、男というカテゴリーとの「二元的で対立的な関係」のために存在する項目、つまり関係項にすぎない。それゆえ異性愛を否定するレズビアン――つまり男と「二元的で対立的な関係」を拒否するレズビアン――は「女でもなければ、男でもない」。このようなカテゴリーを超越し、拒否するがゆえに、レズビアンは、こういったカテゴリーが文化によって偶発的に構築されていることや、異性愛のマトリクスという暗黙の、だが永続的な前提があることをあばいていくと、ウィティッグは主張する。

ウィティッグにとって、ひとは女に生まれない、女になるのだ。さらには、ひとはメスには生まれない、メスになるのだ。だがさらにラディカルに言えば、もし選べるものなら、ひとはメスにもオスにも、女にも男にもならないでいることができ、事実、レズビアンは、「第三のセックス」とされている。

ウィティッグは、セックス」を、女やゲイやレズビアンにとって「抑圧的な意味体系が言説のなかで生みだし、流通させているもの」と考えている。そしてウィティッグは、この意味づけの体系に参与することも、体系の内部で改革的、攪乱的な位置を取ることの有効性を信じることも、拒否している。なぜならこの体系に少しでも関与することは、体系全体に関与することになり、ひいてはそれを追認することになってしまうと考えるからである。その結果、ウィティッグが描く政治的課題は、セックスに関する言説全体を転覆させること、『ジェンダー』(つまり『架空のセックス』)を人間の事物の両方の本質的な属性とみなす文法そのもの(とくにフランス語の文法)を転覆させることである。意識的に挑発的で帝国主義的な戦略をとりつつ、ウィティッグは、普遍的で絶対的な視点を持つことによってのみ――つまり、世界全体をレズビアン化することによってのみ――異性愛の強制的秩序を破壊することができる。

ウィティッグが、性の二元論にまみれた「女」を拒否して「レズビアン」を選択したとき、その命名さえも、異性愛と相補的な関係をもつカテゴリーだ。ウィティッグは、異性愛の文脈から徹底的に離れることによってのみ――つまりレズビアンやゲイ男性になることによってのみ――異性愛体制の転覆をもたらすことができると信じている。ウィティッグのこのような公式においては、同性愛は、異性愛のマトリクスの根本的な「外部」とされており、それゆえ、同性愛は異性愛の規範によって条件づけられるものではない、と考えられているのである。ストレートとゲイを根本的に不連続とみなすウィティッグの見方は、彼女自身がストレートな精神の分割主義的な哲学的身ぶりと評した不連続な二分法を、みずからが反復するものである。

 

ウィティッグが異性愛と同性愛のあいだに設けた根本的な不連続は、断じて真実ではない」。すなわち、異性愛の関係のなかにも、「精神的な同性愛の構造」があり、ゲイやレズビアンセクシュアリティや関係のなかにも、「精神的な異性愛の構造」があるのだ。したがって、「異性愛は、セクシュアリティを説明する権力の、唯一の強制的な表出ではない。

異性愛は強制的な体系であると同時に、本来的な喜劇(それ自身の絶え間ないパロディ)であり、つまりはオルタナティヴなゲイ/レズビアンの視点であるという洞察」である。ウィティッグの提案は、一見、解放主義のようにみえるが、セックスのカテゴリーを奪取し再配備することによって同性愛特有の性的アイデンティティを増殖させるような言説――ゲイ/レズビアンの文化のなかの言説――を無視している。

「ゲイ/レズビアンの文化のなかの言説」による「(異性愛の)パロディ的な再占有(リアプロプリエーション)は、セックスのカテゴリーや、同性愛のアイデンティティに対するもともとの侮蔑的なカテゴリーを配備しなおし、不安定化させるものである」と述べ、それらとの関与を否定するウィティッグとは袂を分かつ。

ゲイが女性性を奪取(アプロプリエーション)してしまうことは、その単語の適用場所を増やし、シニフィアンシニフィエの関係が任意のものであることをあばき、その記号を不安定化し、流動化させる。

 ウィティッグは明確に、レズビアニズムは異性愛の全面否定だとみなしている。だが、そのように否定することは、レズビアニズムが超越しているつもりの異性愛の枠組みにレズビアン自身が関与し、究極的にはそれに根本的に依存することになってしまうということになる。なぜなら、異性愛からの排除によって成り立つカテゴリーは、皮肉なことに、異性愛とのあいだに依存関係を結ぶことになり、したがって、レズビアニズムは異性愛を必要とするということになる。女同士の愛の交換は、性の二元論や『自然な身体』というカテゴリーに対してだけではなく、「レズビアン」というカテゴリーに対しても異を唱えるものでなければならない。それゆえ、権力は撤回できるものでも、否定できるものでもなく、ただ配備しなおすことができるだけである。ゲイやレズビアンの実践に関する妥当な読みは、その焦点を、権力の攪乱的でパロディ的な再配備におくべきであって、権力のまったき超越という不可能なファンタジーにおくべきではない。可能なことは、権力の攪乱的でパロディ的な再配備によって、アイデンティティのカテゴリーを完全に奪い取り、そうすることによって、単に「セックス」というカテゴリーに疑問を付すだけでなく、『アイデンティティ』の場所に多様なセックスの言説が集中している様子を明らかにし、そうして、アイデンティティというカテゴリーが――たとえどのような形態をとるにしても――永遠に問題がらみにものだということを示すことである。

 

構造主義精神分析における、近親姦タブーや、それに先立つ同性愛タブーは、ジェンダーアイデンティティを産出する契機であり、理念化された強制的異性愛という文化の認識格子(マトリクス)にそってアイデンティティを生産する禁止である。ジェンダーの懲罰的な生産は、生殖中心の場でセクシュアリティ異性愛として構築し規制する利得に合うようなジェンダーのまやかしの安定化をもたらすものである。同時に、首尾一貫した(アイデンティティの)構築は、異性愛両性愛やゲイやレズビアンの文脈に夥しく存在しているジェンダーの不整合[10]を、隠蔽してしまう。このような異性愛のマトリクスのなかでは「非合法的な」存在ととらえられる「理解不能な」ジェンダーによって、異性愛の首尾一貫性を要求する法が、規制的な理念、つまりは規範であり虚構にすぎないことがあばかれる。

 

 

ジェンダーには「内的真実」が存在するという考えや、「本物のジェンダー」があるという認識論的な考えは棄却された。そのような「起源」が存在するという思考は、強制的異性愛というマトリクスによって遡及的に構築されており、あらかじめその系譜をたどることは封じられているのである。ジェンダーアイデンティティの政治的、言説的な起源を、心理的な「核」に置換させたために、いかにジェンダー化された主体が政治的に構築されているか、またいかにセックスや「本物の」アイデンティティという神聖な内面性の概念が捏造されているのかを分析することが、あらかじめ封じられるのである。ジェンダーの内的真実が捏造されたものであり、『本物の』ジェンダーは身体の表面に設定され、書き込まれる幻想」であるがゆえに、ジェンダーは本物でも偽者でもなく、ただ単に、一次的で安定したアイデンティティという言説の真実効果として産みだされたものにすぎない。ジェンダーは事実ではないので、ジェンダーの多種多様な行為こそが、ジェンダーの概念を作りだすものであり、したがって行為がなければジェンダーもありえない」ということになる。覇権的なマトリクスにおいてひとは「つねにすでに」性別化されているが、それが事実性をおびるために、ジェンダーの行動には、反復されるパフォーマンスが必要である。なぜなら、ジェンダーのそのような反復行為によって、「自然なセックス」とか「本物の女」という「幻想」は、あたかもそれが「起源の事実」として、自然化されていく。

 

ジェンダー規範の沈殿は、「自然なセックス」とか「本物の女」という特定の現象や、その他多くの広く行き渡っている強制的な社会的機構を生産し、またこの沈殿こそ、長い間かかって一対の身体形式――物象化された形態をとって二元的な関係にある二つのセックスに、身体を自然に配置していく形式――を生みだしてきたのである。

 

ジェンダーアイデンティティの基盤は、「時をつうじて繰り返される様式的な反復行為」である。したがって、「『基盤』という空間的なメタファーは、じつはそれが様式的な配置――実際には、その時代の特有のジェンダーの身体化――にすぎないものである」という。奇しくも、田中美津が、セックスの「事実性」という<宿命>を打ち破るべくジェンダーの「社会構築性」を強調するために使用した言葉が、ここで蘇る。すなわち、<どこにもいない女>をあてにして……女は作られるというものだ。「女」という「現実」も「セックスの事実性」も、「身体がそれに近づくように強制されながら、けっして近づけない幻の構築物」、すなわち、<どこにもいない女>なのである。したがって、「異性愛は強制的な体系であると同時に、本来的な喜劇(それ自身の絶え間ないパロディ)であると言うことが可能になる。「現実」が自らを「幻の構築物」と認めるときの、「幻影」と「現実」の裂け目をあばくものは何か。

異性愛が自らを「幻影」と認めるのは、ジェンダーの多種多様な行為における、任意の関係のなかであり、反復が失敗する可能性のなかであり、奇-形のなかであり、永続的なアイデンティティという幻の効果がじつはひそかになされる政治的構築にすぎないことをあばくパロディ的な反復のなかにおいてである。

 

パロディは、オリジナルという概念そのもののパロディなのである。……ジェンダーの同一化についての精神分析が、幻想の幻想によって構築されているように、ジェンダー・パロディが明らかにしているのは、ジェンダーがみずからを形成するときに真似る元のアイデンティティが、起源なき模倣だということである。この永遠の置換は、再意味づけや再文脈化に向かって開かれる流動的なアイデンティティを構築するものである。起源にあるものの意味を結果的にずらしていく模倣として、それらは起源(オリジナリティ)という神話自体を模倣するのである。

 

パロディの例として、バトラーは、異装(ドラッグ)や、服装転換(クロス・ドレッシング)や、ゲイ・レズビアンにおける男役/女役のアイデンティティという性スタイルを挙げる。フェミニズムの理論では、異装や服装転換の場合は、女性蔑視であり、またとくに男役/女役のレズビアンアイデンティティの場合は、異性愛実践から借りてきた性役割ステレオタイプを無批判に取り込んだものと考えられてきた。これらは、異性愛や「女」の統一的なイメージを強化するものである。しかしながら、それらは同時に、異性愛や「女」というイメージの「パロディ的な再占有(リアプロプリエーション)」をおこなうことによって、セックスのカテゴリーや、同性愛のアイデンティティに対するもともとの侮蔑的なカテゴリーを再配備しなおし、不安定化させるものでもある。なぜなら、例えば、ゲイの女役(クイーン)が「女性性」を奪取(アプロプリエーション)してしまうことは、「その単語の適用場所を増やし、シニフィアンシニフィエの関係が任意のものであることをあばき、その記号を不安定化し、流動化させたことになるからである。ジェンダーを模倣することによって、そのようなパロディ実践は、ジェンダーの偶発性だけでなく、ジェンダーそれ自体が模倣の構造をもつことを明らかにする。

 

パロディの実践は、特権を与えられ自然化されたジェンダー配置と、派生的、幻影的、模倣的――いわば失敗したコピー――として現れるジェンダー配置との区別にふたたび関与し、その区別を再強化するのに役立つこともある。たしかにパロディは、絶望の政治――周縁的なジェンダーを、自然や現実の領域から当然のことのように排除する政治――を助長するために使われてきた。だが「現実」になることの失敗、「自然」を具現化することの失敗は、存在論的な場所そのものが、そもそも何によっても占められることがない場所であるために、すべてのジェンダーの演技に共通する構造的な失敗だ。

 

パロディの実践は、特権を与えられ自然化されている異性愛と、模倣的であるとされている同性愛との区別を強化する「絶望の政治」を助長することもあるという。ところが、異性愛という構造こそが、「それ自身の絶え間ないパロディ」であるがゆえに、『現実』になることの失敗、『自然』を具現化することの失敗は、すべてのジェンダーの演技に共通する構造的な失敗である。それゆえ、異性愛マトリクスという法を攪乱する場所は、起源や本物や現実といったものが結果として構築されるパロディ実践のなかに置くべきだ。そして、その攪乱の結果、かりにジェンダー規範がなくなってしまえば、ジェンダーの配置は増殖し、実態的なアイデンティティは安定性を失い、強制的異性愛という自然化をおこなう物語から、その中心的人物(「男」と「女」)が取り除かれていくだろう。ジェンダーは、政治的に強化される巧妙なパフォーマティヴィティの結果であるが、分裂や、自己風刺や、自己批判や、『自然』の誇張表現に向かって開かれている『行為』でもあり、まさにその誇張によって、ジェンダーがもともと幻影でしかないことを明らかにしていくものである。フェミニズムがしなければならない批判的作業は、構築されたアイデンティティの「そと」にフェミニズムの視点を打ちたてることではない。そうではなくて、まさにそういった構築によって可能になっている攪乱的な反復の戦略をとること――つまり、アイデンティティを構築するものでありながら、またそれゆえにその反復実践に異を唱える内在的な可能性を提示するような反復実践に、みずから参与し、それによって局所的介入をおこなう可能性を支持していくことに他ならないのである。

 

 

 

 

第1章 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体
一 フェミニズムの主体としての「女」
二 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序
三 ジェンダー――現代の論争の不毛な循環
四 二元体、一元体、そのかなたの理論化
五 アイデンティティ、セックス、実体の形而上学
六 言語、権力、置換戦略

第2章 禁止、精神分析異性愛のマトリクスの生涯
一 構造主義の危うい交換
二 ラカン、リヴィエール、仮装の戦略
三 フロイトおよびジェンダーのメランコリー
四 ジェンダーの複合性、同一化の限界
五 権力としての禁止の再考

第3章 撹乱的な身体行為
一 ジュリア・クリステヴァの身体の政治
二 フーコー、エルキュリーヌ、セックスの不連続の政治
三 モニク・ウィティッグ――身体の解体と架空のセックス
四 身体への書き込み、パフォーマティヴな攪乱

結論――パロディから政治へ