イスラムの人間は、相手には「ありがとう」と言わない。「ありがとう」は神に言う。
体験記、レポートは事実であっても真理とは言えない。
体験が教えることは、科学的に検証しないと「正しい」とまでは言えない。
イスラム教では、宗教とは法である。
法とは、神との契約である。
神との契約は、宗教の戒律であり、社会の規範であり、国の法律である。
この四つがまったく一致するのが宗教の理想であり、イスラム教はまさにその通りである。
イスラムの信者にとって、法を守ることは、そのまま神を信じることにつながる。
法を守ることによって、ムスリム(イスラム教徒)は容易に安心立命の境地に達する。
一方、キリスト教には、法もなければ、規範もまた存在しない。
このような宗教において、信者が神を信じるには、絶大な努力を要する。
世界がイスラムに追うのは、アラビア数字だけではない。
代数学、天文学、化学はもとより、ギリシャ、ローマの思想研究もまたアラブを母胎とする。
★イスラムは近代化が苦手→後述
アメリカも巨大な宗教国家である。
聖書に手を置いて宣誓しないでアメリカ大統領になったものはいない。
アメリカの政治家は敬虔なクリスチャンであると称さない限りは当選しない。
一神教徒は、そもそも他宗教を排他する傾向があり、特に著しいのがキリスト教徒である。
アメリカとイスラムとの戦いは、文明の衝突ではなく、宗教の衝突、一神教どうしの衝突である。
日本人「宗教が違っても人間はみな同じ」
世界「宗教が違えば、エスト(行動様式)が違う」
西洋を起源とする資本主義、デモクラシー、近代法はすべてキリスト教に深く根差している。
キリスト教の理解が不十分だから、資本主義とは名ばかりの、官僚による統制経済がのさばる。
世界におけるムスリムは12億人を超える
アメリカにも600万から800万の信者がいる。
日本のムスリムの数は10万人、イスラムの教えに触れて改宗したひとは2万から3万
仏教は「縁なき衆生は度し難し」と、知りたいものは拒まないが知りたくないものをも教化しようとはしない。
コーランの原著者はマホメットではなく、アッラー(神)である。
アッラーの教えを大天使ガブリエルが、マホメットに伝えた言葉である。
イスラム教の信者には六信五行というものが課される。
つまり、神(アッラー)、天使(マラク)、啓典(キターブ)、預言者(ナビー)、来世(アーキラット)、天命(カダル)の六つ を信仰しなければならない。このなかで、アッラーが最も重要で、アッラーの持っている九九の美質(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%81%AE99%E3%81%AE%E7%BE%8E%E5%90%8D)のすべてを信じることが求められる。
さらに、五行(五本の柱(アルカーン・アルハムサ))という宗教的義務を果たしてはじめて信者になれる。
「アッラーの他に神は無い。ムハンマドは神の使徒である。」と証言すること。
礼拝(サラート)
一日五回、キブラに向かって神に祈ること。
喜捨(ザカート)
収入の一部を困窮者に施すこと。
断食(サウム)
ラマダーン月の日中、飲食や性行為を慎むこと。
巡礼(ハッジ)
経済的・肉体的に可能であれば、ヒジュラ暦第十二月であるズー=ル=ヒッジャ月(巡礼月)の8日から10日の時期を中心に、メッカのカアバ神殿に巡礼すること。
イスラム寺院と呼ぶのは間違いである。
イスラムには、僧侶はおらず、したがって修行・生活するための寺もない。
コーラン>スンナ>イジュマー>キヤース>イスティフサーン>無記の福利>慣習>イスティスハーブ>イスラム前の法>教友の意見
「イスラムの連帯」を作り出す巡礼と断食
巡礼(ハッジ)に集まった人々は、布を巻いているだけで、
国籍の違い、肌の色の違いがわからない。
断食は、同じ時期にすべての信者が断食する。
このことは、苦しんでいるのは自分だけではない、
同じ苦しみに耐えているという感じることで、
そこに強い連帯が生まれる。
イスラム教が寄進によって支えられているのに対して、
キリスト教は規範を完全否定して生まれた。
キリスト教には規範が存在せず、「信仰のみ」の宗教である。
ユダヤ教に由来する律法から、キリスト教はパウロによって自由になった。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」
人間は原罪(アダムの犯した罪)を持っているので、規範は守れない。
守れないものを後生大事にしていても何の意味もない。
だから、すべての規範を排除して、「信仰のみ」を問う。
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キリスト教は信じるだけで救われる宗教
キリスト教は無規範の宗教である。
キリスト教は信仰のみの宗教だから、本来は教会は不要である。
布教の都合で、修道院ができ、
修道院の運営のために、規範が導入された。
日本人は規範嫌い。無規範民族。
神とは「苦難をも、もららす」
これ以上、不幸にならないために神をあがめる
これが一神教
仏教の規範は、戒律。
戒とは、釈迦が定めた悟りに至るための行動規範
律とは、出家者の共同体である「サンガ(僧伽)」における生活ルール。
仏教は、「釈迦の教え」ではなく、「誰の教えでもない」
釈迦は「法(ダルマ)」を発見したに過ぎない。
イスラム教と仏教との決定的な違い
「法前仏後」仏教において、まず、法があり、それを釈迦が発見した。
「神前法後」まず、神がこの世を作り、人間を作り、法則も作った。
つまり、イスラム教における規範は神が決めた法である。
仏教における法は法則であるから、そもそもあるものなので、守るとか守らないというものではない。
つまり、仏教の戒律は強制力を持たない。
釈迦は、人間が生老病死という苦しみから逃れられないのは、人間の中に煩悩があるからだとした。
そして、修行によって煩悩から脱却できるとした。
このために、僧侶が必要となる。→仏教の三宝(仏法僧)
キリスト教においても、いてもいいしいなくてもいい。
中国の仏教は
仏典(経蔵、論蔵、律蔵)のうち律蔵が欠けていた。つまり、戒律が欠けていた。
経蔵とは、釈迦の教説である経典の集成。
論蔵とは、律や経に対する研究、解釈をまとめたもの。
律蔵とは、出家修行者(比丘・比丘尼)が護るべき戒律(具足戒・波羅提木叉)及び僧伽(僧団)の運営規則。
日本の仏教には戒律(受戒)がなかったので、鑑真が持ってきた。
ところが、天台宗の最澄は、従来の戒を排して、形式的な「円戒」を創設した。
円戒は、受戒の儀式をも簡便化した。
唯一絶対の神しか認めないキリスト教と、多神教の神道は相性が悪かったので、
日本仏教はキリスト教にきわめて相似しているが、キリスト教は日本になじまなかった。
キリスト教は唯一絶対の神しか認めないのにマリア信仰がある。
ノートル・ダム→われらが貴婦人→聖母マリア
啓典宗教においては、神は唯一絶対の存在で、神の上に神はなく、神の下に神はいない。ただ一人の人格神がこの世を統御する。
三位一体説→神とキリストと聖霊は、現れている形こそ違うが、すべてその実体は同じ
イエスが人間だとすれば、人間に神の与えた罪を赦す資格があるのか
→資格があるとすると万能の神よりもイエスの方が偉いことになる。
→イエスは神の「本地垂迹」である。→人間が神を生んだことになる。
ニケア信条→イエスは完全な人間であり、同時に完全な神である。
日本でのイスラム教普及が絶望的に難しい理由
・イスラム教には日本人が苦手としてる規律(戒律)がある。
・その規律はすべての信徒が守らなければならない
・一神教→「アッラーの他に神なし。マホメットはその使徒である」と唱えなければならない
アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、エジプト人の奴隷として430年苦しみ、
エジプトから脱出して、荒野を40年さまよい、
ヨシュアは神の命に従い、カナンを滅ぼした。
→異教徒の虐殺は正義
このイスラエルの王国は、バビロニア人によって、エルサレムの住人は捕らえられ、
バビロニアに移住させられた。
イスラエルの民は、神の言葉に従い、大虐殺を行った。
選ばれた民であるがゆえに神が苦難を与えるとしてユダヤ教ができた。
第二次大戦後、ユダヤ人たちは再びカナンに戻って、
十字軍は宗教に名を借りた「ならず者集団」
「コーランか、剣か」はウソ
イスラム教徒は、剣とコーランを引っ提げて全世界を荒らしたことはない。
イスラム教徒にとって左手は「不浄の手」なのだから、コーランを左手に持つわけにはいかず、すると全員左手に剣をもって戦ったことになる。
一方で、偶像崇拝を許さない。
結果として、異教徒のそり信仰は許しても、偶像は破壊する。
啓典宗教では、偶像崇拝は許されないが、キリスト教はこのタブーを守っていない。
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神が支配する神聖なる国家である。
神はいつか、ユダヤ人をこの世の支配者にする。
イエスの言葉に耳を傾け、正しい信仰を得たものなら救済が与えられ、
永遠の生命を与えら、神の国に入ることができる。
キリスト教の神にとって、異教徒は隣人ではない。
彼らを皆殺しにしても、奴隷にしてもかまわない。
財産はすべて没収してもよい。
これが神がヨシュアに与えた指令である。
イスラム教の神は、ユダヤ教やキリスト教の神と違いに、コーランの冒頭に書いてあるように、
けっして、怒りに任せて人類を滅亡させたり、あるいは信者を試したりするようなことはない。
「この世ほ支配するのは唯一の人格神である」とする一神教の教義からすれば悪魔は本来不要な存在だが、
イスラム教の悪魔は、本来、天使であったものが何らかの罪によって神に罰せられた結果、生まれたもの。
昔は聖書にも「天使とは」という記述があった。
宗教改革の際に、ルターが「外典(異端な書)」として追放してしまったために、
「おそらく神の召使なのだろう」と推定するにとどまっている。
イスラム教では、天使は「神に仕える清浄な霊」であり、六信の二番目に天使(マラク)を信じよと教えている。
コーランに「宗教に強制なし」と謳ってあるから、
イスラム教においては、「異教徒である」という理由だけで人間を殺したりしない。
また、異教徒に対して、イスラム教への改宗を強制しない。
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呪術の本質は、神をして人間を従わせること
この目的をかなえるために、神の名前を呼ぶ。
予定説→誰が救済されるかは神が一方的に定める。
秘跡(サクラメント)→これらの儀式を教会で受ければ救済されるとしてしまった。
洗礼→原罪およびそれまでに犯したすべての自罪がゆるされるとされている。
堅信→洗礼の恵みの完成に必要なもの
回心(ゆるし)→過去の罪や生活を悔い改め、神の正しい信仰に心を向ける
聖餐(聖体)→イエスの血肉を象徴するぶどう酒とパンを与える。
叙階→聖職者を任命する
婚姻→男女が神と契約を結び、終生を共にすることを誓う
病者の塗油(終油)→臨終に際し、心の平安を与えるために体に油を塗る。
教会において、特別な儀式をすれば、神の決定に影響を与えるというのは呪術である。
神の絶対性が否定される。
中世のキリスト教から呪術的要素を追放し、合理的になった。
この合理性の追求が資本主義の精神につながっていく。
近代資本主義は、合理的経営なくして成り立たない。
合理精神の源泉となったのが聖書である。
中世のクリスチャンはほとんど聖書を読んでいなかった。
このため、教会が聖書に書かれていない秘跡を行っても気が付かなかった。
→文字が読めなかった。
→信者に聖書を読ませると教会のインチキがばれる。
→その代わりに、賛美歌を歌い、祈祷書を読ませた。
なぜ、ムスリムは死を恐れないか
コーランのために命を捨てると、その偉業は永遠にたたえられる。
アッラーのために戦い、すなわちジハードで倒れたものは死んだことにならない
イスラムの教えを守るために死んだ者は、すでに生きて緑園に入ることができる。
ただし、ジハードはイスラム法学者だけがコーランやスンナなどに照らし合わせたうえで宣告できる。
イスラムの歴史では、ナポレオン程度では英雄といわない。
・ティムール(タメルラン)
→中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設
・オスマントルコの征服王メフメット二世
→コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻略してビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、オスマン帝国の版図を大幅に広げた。
・ムガール帝国の実質的な建国者アクバル大帝
イスラムの規範では、一日五度の礼拝をする際に、体を清浄にしておくべし
汚きこと、クリスチャンのごとし
メアリー・ステュワートのシュミーズがあまりに汚く、そのベージュ色をステュワートカラーと呼んでいした。
息子のジェームスは生涯に一度しか風呂に入らなかった。
西ローマ帝国が滅びたのち、ゲルマン人はギリシャ文化に価値を感じていなかったので、その文化的遺産はゲルマン人ではなく、サラセン帝国に引き継がれた。
アッバース朝は、ギリシャの医学、哲学、天文学、地理学、数学の書物を「知恵の館」に集めたことによって、アラブの学問は高度になった。
アラブ人の識字率はほぼ100%だったが、カトリックのほうは、僧侶にしてもギリシャ語はおろか、ラテン語も読めなかった。
トルコのトプカプ宮殿のなかにはベルサイユ宮殿クラスの建物がゴロゴロ転がっている。
キリスト教徒はイスラム(スペインのコルドバ)に留学し、ギリシャの古典を読むために、アラブ語を学んだ。アリストテレスの原著をラテン語に訳すのに13世紀末までかかった。
ヴァスコ・ダ・ガマは、イスラム教徒の水先案内人を雇ってインド洋の横断に成功した。
中国では、明の時代にイスラム教徒である鄭和がアフリカに行っている。
十字軍コンプレックス
エルサレムはユダヤ教、キリスト教ばかりではなく、イスラム教にとってもメッカ、メディナに次ぐ「第三の聖都」である。
そこにキリスト教徒は、「異教徒に奪われた聖地を取り返せ」と十字軍を送り出した。
1099年、キリスト教徒は「聖地奪還」し、エルサレム王国を建国する。
1187年、ハッティンの会戦において、エジプト王サラディンが十字軍を撃退し、エルサレムを奪回した。
中国人(漢人)の条件は、中華文化を受け入れ、中国人として生きること。
なぜ、ヨーロッパにだけ資本主義が興ったか。
資本主義が発展するには、資本主義に「徹底的に反対する」経済思想がなければならない。
つまり、金もうけを全否定する思想がなければ、本物の資本主義は出てこない。
キリスト教は「貪欲は罪なり」としていた。
ヴェーバーによると、中産的生産者層に属する人々はこういうふうに考えたのです。 隣人たちがほんとうに必要としている、あるいは、手に入れたく思っているような 財貨、それを生産して市場に出す。しかも、あの掛け値を言ったり値切ったり して儲ける、そういうやり方ではなくて、「一ペニーのものと一ペニーのものとの 交換」、つまり、正常価格で供給する、というやり方で市場に出す。 そして、適正な利潤を手に入れる。これは貪欲の罪どころではなくて、 倫理的に善い行ないではないか。いや、端的に、神の聖意にかなう隣人愛の 実践ではないか。そう問いつつ、彼らはさらにこう考えたのです。 もし自分たちが生産している財貨が、ほんとうに隣人たちが必要とし、 手に入れたく思っているものであるならば、 それは必ず市場でどんどん売れるに違いない。 そうすると、当然そこに利潤が生まれてくる。 そうだとすると、その利潤は、商人たちの獲得する投機的な暴利や高利貸 などとはまるで違って、むしろ隣人愛を実践したことの現われということに なるのではないか、というわけです。ですが、そのばあい、 彼らの営みがほんとうに隣人たちが必要としている ものを供給する、そうした隣人愛の実践となっているかどうかは、 市場に出した商品が売れ、利潤が得られてのちにはじめて分かることになる。 つまり、利潤の獲得のいかんによって、事後的に判明するというわけですから、 実際問題としては、結局儲かる仕事がよい仕事で、儲けがあるということが 隣人愛を実践したことの判定の基準となってくる。もし、そうであるなら、 人間はむしろそういう形での金儲けを行ない、利潤の追求に努めねばならない。 それはまさしく倫理的な義務だ。彼らはそう考えたのです。
中産的生産者層(大塚久雄)
聖書が「契約の絶対」をもたらした。
キリスト教をはじめとする啓典宗教では、神と人間の間に契約が結ばれる。
神との契約を絶対に守らなければならないように、人間同士の契約も絶対に守らなければならない。
イスラム教では、アッラーは絶対であって、比すべきものは皆無としているので、人間同士の契約は存在しない。
イスラム・ファンダメンタリズム(イスラム原理主義)という誤解
ファンダメンタリズムとは、聖書にかかれていることを、そっくりそのまま事実だと信じる人たちのこと、つまり、キリスト教にしか起こり得ない。
コーランそのものが信者に対して、外面的行動、つまり規範を守ることを要求しているので、「コーランだけを信じればよい」というファンだメンタリズムは生まれてくる余地がない。
経済学者の小室直樹がこんなに宗教にくわしいのは、マックス・ヴェーバーの宗教社会学論集をネタ本にしているからに違いない。