詭弁を学ぶことで、相手の用いた詭弁を自らの議論の武器にできる。
詭弁に騙される人は、単に馬鹿だから騙されるのではなく、人間の思考が、そのようなものを受け入れてしまう癖を持っているから騙される。
議論とは、言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営みである。
人間は、正しいと思って論理的な誤りを犯し、正しいと思って論理的な誤りを受け入れる。
つまり、詭弁に欺かれまいとして、正しい理屈に欺かれる。
先決問題要求の虚偽
結論を証明するための前提を証明なしに採用している誤り。 前提自体の証明が先決問題として要求される。
性急な一般化
→少数の、あるいは不適切な事例の観察から、それらの事例に見られる性質を、それらを含む母集団全体の性格と決めつけてしまう詭弁
時間的前後関係を論理的因果関係と取り違える誤り
A、Bという二つの事件が連続して起きた時、AをBの原因としてしまう誤り
反対尋問の技術
対立する二つの立場がある場合、人間は概してそのどちらかに味方してしまう
自分の銅像を建てたくなるわけ
肉体的生殖とは、単に生命が代々受け継がれることではない。自分が死なないことである。肉体的生殖には、生身の人間をコピーとして生むだけでなく、物質に自分の姿を保存するという行為も含まれる。功成り名遂げた人間が、自分の姿を肖像画や銅像で遺そうとするのは、疑似的な肉体的生殖と言える。彼らは、自分の外見を、生命をもたない無機物でもいいから後世に遺すことを望んだのである。
ただし、これらの物質は、ただ自分の死んだ後も遺ればそれでいいというものではない。自分が不死であるためには、誰かが自分の「生きている」ことを認めてくれなくてはならない。生きているとは、自分が生きていることを誰かが知っているということである。だから、人里離れたところに建てられた銅像や、倉庫にしまわれた肖像画など何の意味もない。それらはどうあっても、他人の目につくところに建てられ、飾られなくてはならない。そして道行く人が、その俗物ぶりに舌打ちしながらでもそれらを眺めるとき、彼らの一部はまだ死んではいないのである。
しかし、人間にとってより重要なのは、この肉体的生殖よりも、むしろ心霊的な生殖である。すなわち、自分の精神を後に遺そうとすることである。
多義あるいは曖昧の詭弁
議論(論証)中に現れる言葉が複数の意味で使用されることにより、
また何を指すのかが判然としないまま用いられることによって、
議論に不正を生じさせる詭弁
相手の議論が複数の意味で理解されるとき、「相手の不利になるよう解釈すること」
藁人形攻撃
→相手の主張を、こちらが反論しやすいように(故意に)歪めて表現する詭弁
人に訴える議論
→ある人物の議論に対して、その議論の妥当性を問うのではなく、その人物の人格、発言の動機、実際の行動や過去の発言との整合性を問題にすることで、その議論そのものを否定しようとする詭弁