akon2.00βのよっぱらいの戯言

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孔子は性悪説だったから礼儀を重んじた

以下、引用です。

孟子は性善論(=人々の性は善であるという考え方)だといわれている。逆に孔子は性悪論だ。人間の悪の心を直すのは至難の技だから、まずは形だけでも言うとおりにしなさいというのが「礼儀」らしい。

 この性善説性悪説かという見方の違いは、会社経営でも軍隊でも学校でも、永遠の問題となっている。「心からそう思わせるように教育する」と教育者は言うが、そんなことはなかなかできないから、「形だけでもちゃんとやれ」となるのである。

 「先生を見たら敬礼せよ」とか、「教室に入るときは靴を脱げ」とか、まずは形から教え込む。そうやって子どものころから教えると、不思議と心もそうなってくるものだ。

 形から入って心をつくるのか、心さえあれば形はどうでもいいのか。これはサービス産業論の根本にもつながる。「ホテル経営学」や「サービス産業論」などと呼ばれるものの根底には、要するに、性善説性悪説かという問題がある。

 米国は性悪説だから、何でもみんなに形を守らせればいいと考える。形さえ守ってくれれば給料を払うという仕組み。心が入れ替わったかどうかは判定不可能だけど、形はすぐに判定できる。これが米国の労使関係だ。

 逆に日本は性善説寄りで、「おまえの心が悪い」とか「目つきが悪い」とか、人の内面にまで手を突っ込んで、それを変えようとする。自分で気付いて自分で考えろというのは人間尊重的でもある。

ここまで、なるほどと思った。次のページに、「儒教には『許し』がない」とかいてあったのですが、これについて傍証が得られなかった。もし、そうだとしたら、あやまらない中国人が理解できたのに。もっとも、中国人に言わせると、日本人の「ごめんなさい」はちっとあやまっていないじゃないかといわれるけど。

2017/11/14追記
善政をほどこせば、暮らしはよくなるから戦争は起きない
戦争は私欲でおこなわれる
暴力が暴力を呼ぶ